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秋田県大館市片山町。
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社号標(大正13年6月15日・昭和18年6月15日72歳紀念)。
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片山八坂神社標柱より…『祭神は素盞嗚尊。もとは牛頭天王堂と称し、疫病を除く牛頭天王を祀っていました。明治になって八坂神社と改称しました。江戸時代には大館愛宕社の修験養善院が社務を取っていました。かつて氏子はきゅうりを忌物として食べませんでした。境内のたもの木の発芽は作付け開始を告げるものとされました。また江戸時代の力士掛放二度右衛門(かけはなちにどうえもん)などの怪力伝説が伝わっているように、奉納相撲が盛んでした。1792年の「片山村絵図」や検地帳など貴重な資料が所蔵されています。』
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月夜見命・秋田縣牛馬商組合の奉納碑(紀元2601年)。
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手水舎。
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手水舎と御神木。
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御祭神は素盞嗚尊、木花咲耶姫命、少彦名命、菅原大神、天照大神。例祭日は6月15日。
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創立は下川沿村片山の開基と同時にして和銅年間と言い伝えられています。山城国愛宕郡八坂神社の御祭神である素盞嗚尊の御分霊を奉祀。その後、第57代嵯峨天皇の御宇弘仁8年丁酉、当時中央に位置する字片山村中に遷座。これが現在の鎮座地です。当時は山城国祇園社と同じく牛頭天王と称していましたが、明治になって八坂神社と改称。明治6年9月村社に列し、同40年1月神饌幣帛料供進神社に指定。氏子はきゅうりを忌物として食べないそうですが、今でも年老いた方々できゅうりを食べないという氏子はいるそうです。
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江戸時代には大館愛宕社の修験養善院が社務を取っており、修験養善院(江戸時代絵図・現存せず・愛宕神社別当)の資料がたくさん保存されていたそうです。養善院は当山派の京都醍醐寺三宝院に属し、伊勢の世義寺の先達の支配を受けていました。修験は吉野から熊野に至る大峯山で修行し、補任状により官位を得ていましたが、その養善院補任状も所蔵されています。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内に「ヤマタノオロチ退治」の大型絵額とその解説が掲示されています。
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拝殿内へ。
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古い神額。
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幣殿。
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卯・寅絵馬。
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拝殿階段改修工事資金寄附者御芳名。平成4年6月竣工。
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ヤマタノオロチ退治の大型絵額(大正11年旧6月15日)。
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「神話から見えてくる」より…『「国引き」「八岐大蛇退治」「因幡の素兎」など、日本に伝わる神話の多くは、島根県出雲地方を舞台としています。出雲学研究所理事長の藤岡大拙さん(1932年生まれ)は、その出雲に生まれ育ち、長年、出雲神話を研究してきました。【~八岐大蛇退治-「日本書紀」より~】スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治のあらましは、こうです。乱暴を働いたために高天原を追放されたスサノオノミコトが、出雲国・斐伊川上流に天下ってこられました。そこで、年老いた夫婦とその娘クシイナダヒメ(奇稲田姫)に出会います。夫婦が泣いているので「どうしたのか」と尋ねると、自分たちには八人の娘がいたが、年に一度ヤマタノオロチがやって来て、一人ずつ食べてしまった。この娘も食べられてしまう時期が近づき、逃れる術もないので泣いているのだ、と言うのでした。それを聞いたスサノオは、「逃げられないのなら、娘さんを私の妻にください」と申し出ます。夫婦が承知すると、スサノオは呪文を唱えてクシイナダヒメを櫛に変え髪に挿しました。そして、きつい酒を造って八つの台に置いた桶に入れておくよう夫婦に命じ、オロチが現れるのを待ちました。やがて現れたオロチは八つの谷、八つの尾根にまたがるほど巨大で、頭は八つ、尾は八本あり、背中に木を生やしたおそろしい姿をしていました。そして、八つの頭を八つの桶に突っ込んで酒を飲み干すと、酔いつぶれてしまいました。そこでスサノオは剣を抜き、オロチの体をズタズタにして退治し、オロチの尾から出てきた霊剣を高天原の神に献上したのです。スサノオはクシイナダヒメを元の姿に戻し、新居を構える理想の土地を、出雲国に見つけられました。そこで「我が心、すがすがし」と喜びの声を上げられたので、その地は以後、「スガ」と呼ばれるようになったということです。そのとき、目の前に雲が湧き上がりました。スサノオが「雲までもが私を寿いでくれるのか」と詠んだ歌が、八重垣の歌。平成23年1月NHK発行雑誌「ラジオ深夜便」より抜粋す。片山八坂神社氏子会』
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幣殿・本殿覆屋。
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社殿向かって左側。
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第二神殿跡地(昭和11年10月)。
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拝殿前案内板「片山八坂神社由緒略記」より…『創立は下川沿村の開起と同時にして和銅年間と云い伝えられている。山城国愛宕郡八坂神社祭神素盞嗚尊の御分霊を奉祀す。【記】一.弘仁2年 西暦811年 片山地内山子屋敷に神社創建される。一.安永4年 西暦1775年 山子屋敷から第二神殿跡地に移築される。一.明治6年 下川沿村 村社に列せられる。一.明治44年 神明社・薬師神社・菅原神社・浅間神社を八坂神社に合祀。一.昭和11年 第二神殿跡地から現在地に移築す。一.平成21年 神社創建1200年記念事業として社殿の改修と屋根全面葺替を行う。例祭 旧暦6月15日。宗教法人片山八坂神社 文責氏子會々長齋藤威男』
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拝殿前の石灯籠一対。
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嘉永7甲寅10月。
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かっこいい石灯籠です。
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しかもよく見ると石灯籠一対兼狛犬一対なのです。
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阿形狛犬。
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吽形狛犬。
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社務所内にて過去の写真や境内図など色々と見せて頂きました。ありがとうございます。こちらは明治44年5月11日に合祀された神社。御祭神と一致しますね。
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こちらは神饌幣帛料供進神社に指定された時のものですね。
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こちらは寄附に関するものです。
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かつては土俵があったそうです。見せて頂いた神社所蔵の古地図でも境内に土俵が描かれていました。境内にある案内標柱の説明にも片山八坂神社に伝わる怪力伝説について触れられていましたが、次のような話(要約)になります。
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片山の下総家の先祖の三十郎は剛力で、草相撲の大関として長い間活躍していました。一方、明石志賀之助という身長2.5mもの力士がおり、力自慢を鼻にかけ人々から嫌われていました。佐竹侯は三十郎を江戸に呼び寄せ、志賀之助と御前相撲を行わせることにしました。三十郎は志賀之助の頭上高くに持ち上げられて放り投げられそうになるも、両肩に足をかけ、髷の元結を掴んで自分の体をいっぱいに反らしました。志賀之助が力を入れれば入れるほど、三十郎は体重をかけてくるので、とうとう我慢できずに志賀之助は仰向けに倒れました。珍しい技だったので物言いがつきましたが、三十郎は「これは鷹の喰い落し」という手であると将軍に申し上げ、三十郎の勝利となり、「かけっ放し二度右衛門」の四股名を頂いたそうです。三十郎については後日談や子孫にまつわる話などもありますが、長くなるのでここでは省略いたします。
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忠魂碑(明治40年6月・靖國神社宮司従六位勲六等賀茂水穂書)。
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境内社。
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如意輪観音ですかね。
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もう一体は下部しか見えませんが鳥に乗っています。東寺観智院五大虚空蔵菩薩では蓮華虚空蔵が金翅鳥、業用虚空蔵が孔雀の上に乗っていますが、そのどちらかに見えますね。もしくは日光山輪王寺大猷院の常行堂御本尊(宝冠五智阿弥陀如来像)。
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石祠3基。
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境内社。
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馬頭観音ですかね。
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かつては馬に乗っていたのかな。
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皇紀2600年記念碑(昭和15年2月11日)。
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金澤良藏翁表彰碑。
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裏面碑文…『大館町素封家金澤榮吉翁ハ當片山部落内ニ多數ノ小作人ヲ有シ古來ヨリ縁故最モ深シ嗣子良藏氏ハ大正八年中法度川原地内原野ノ開墾事業ニ着手シ私財數千圓ヲ投ジテ五町八反歩ノ田地ヲ完成セラレタリ今日開墾地トイヘバ金澤氏ノ此ノ田地ヲ稱スルナリ今回部落ニ於テ同氏ノ功徳ヲ永遠ニ傳ヘンガ為表彰碑ノ建設スルニ際シ茲ニ其由來ヲ記ス 昭和十九年六月片山部落』
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