岩手県二戸郡一戸町。国道4号線沿い。COSMO石油向かいに駐車場。この付近は北館跡です。駐車場・一戸公園となっています。
駐車場にこんなものが。子どもたちの遊びでしょうか。
ここから下(左・南)に向かうと八幡館跡、神明館跡、常念館跡と順に下るような配置です。上(右)が北館。
特に案内看板等があるわけではないので、素人にとってその遺構等を楽しむには、下調べ無しでは難しいかも知れません。
石祠。何かはわからず。
北館跡から八幡館跡へ少し下った場所には三神社が鎮座していました。
八幡館、神明館などとあることから三社託宣の三社かと思ったのですが、合祀された三神かも知れませんし、いずれにせよ由緒等はわかりません(調べていません)。館神といった雰囲気ではありませんでした。県外の神社なのでこれ以上の追究はいたしません。
社殿。
向拝神額。
拝殿内。中央に本殿。
反射してよく見えませんでしたが、横にはやや大きめの静御前らしき人形が祀られていました。
三神社の鳥居の脇に「史跡一戸城跡」の標柱があります。
この標柱にも特に説明はありません。
三神社脇にあった馬頭観世音の石塔。結構大き目の石塔です。
紀年銘は慶應3年卯7月(1867)。
高台にあるのはわかりますが、草木によって眺望はありません。季節によるかも知れませんが。
北館へ。
さて、一戸城は戦国期の平山城で糠部郡一戸に所在します。
城跡は一戸町北部中央の馬淵川右岸、比高60mの台地上に位置します。国道4号線により分断されています。
主要郭は南北に連続した段丘崖の高台部を利用した北館、八幡館、神明館、常念館の4つの郭で構成されていました。主郭は神明館であったと考えられているようです。
一戸南部氏の居城であり、築城は室町期の建長年間(1249-1256)一戸南部氏の2代目南部義実によるものとみられています。天正9年(1581)城主一戸兵部大輔政連父子は実弟の平館政包により殺害されて一戸氏の嫡流が滅亡し、一戸城には九戸政実の腹心の一戸図書が入りましたが、南部信直は一戸城を攻め落とし、北主馬秀愛を城主とします。天正19年(1591)九戸政実の乱では籠城して九戸氏側の夜襲に耐え、乱の後は石井信助が城代となりましたが、天正20年(1592)「諸城破却書上」には「糠部郡之内 一戸 平城 破 信直抱 代官 石井新助」とあり破却されました。昭和54年以降、北館、八幡館、無名郭などが発掘調査されているそうです。昭和63年に出土した馬の焼印は、中世糠部の馬産を考える上で唯一の資料と言われています。
ベンチがあります。
座っても草木によって眺望はありません。
中央にある松だけ周囲を柵で覆われていました。よく見えませんが、根元は塚のようになっています。特別な由緒でもあるのでしょうか。
案内板等もありませんが、いずれにせよ綺麗な三頭木でした。
四阿。
赤松と石碑群。
一戸城跡とは直接関係のないものでしたが紹介します。
石灯籠一対(昭和45年5月吉日)。
忠魂碑(明治40年6月)
裏面に日露戦歿戦病死者。
両脇に顕彰碑(陸軍・靖国神社創建百年記念事業として建立・昭和45年5月・一戸町遺族連合会)。地区別(一戸・鳥海・浪打・姉帯・奥中山)、戦争別(満州事変・支那事変・大東亜戦争)。
平和之碑(岩手県知事中村直書)。
裏面碑文…『昭和6年9月18日、満州事変勃発、支那事変から大東亜戦争へと長い戦争が続き、多くの戦友が祖国の安泰を希って戦場に斃れ、或は水漬屍となって散って逝った。僥倖にも私達は九死に一生を得て祖国に還って耒たが、戦傷をうけた私達にも長い苦難の生活が続いた。然しながら現在の日本の繁栄と、国運の隆盛を見るとき実に感慨無量である。私達は子孫のために悲惨な戦争のない真の世界平和を念願し、戦死された戦友達の為に心から冥福を祈り、傷痍軍人有志の賛同を得て、平和之碑を建立してその名を刻し、永久にその意を顕そうとするものである。昭和59年3月吉日岩手県傷痍軍人会一戸支会』※傷痍軍人名省略
創立二周年記念植樹標柱(染井吉野桜・ロータリークラブ・昭和62年4月)。
消防士義魂碑(昭和6年4月・一戸、鳥海、小鳥谷、姉帯、田部消防組)。
日露戦争凱旋紀碑(明治40年6月建立)。
碑文。
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