秋田県仙北市。八幡平ほど紅葉は進んでいませんでしたが、清々しい空気でリフレッシュできました。ちなみに渓谷は木が邪魔で写真が撮りにくい感じでした。
お店もあってキノコ汁やら色々頂きました。
熊鍋も美味しそうでした。月の輪熊の味付缶詰もあったよ。
周辺にあった石碑。佐藤信義先生顕彰碑(初代田沢湖町長・名誉町民)。
顕彰碑の由耒…『佐藤信義先生は当町岡崎に生を亨け県立秋田農学校を卒業、兵役除隊後秋田県庁に奉職し、農政担当部門を経験され、昭和19年秋田県農業会に招聘されて常勤役員として勤務された。終戦後は県内農協組織結成の促進に当られ、自ら県連合会常勤役員に就任し、その育成指導に尽力された。この間信越地方道路運送審議会委員、県労働委員その他多くの要職にあり活躍された。昭和31年多くの村民からの要請を受け神代村長に就任し、この年9月30日3ヶ町村合併により現在の田沢湖町が誕生するや同年11月初代田沢湖町長に就任され爾来4期16年間在任し、揺籃の時代から新町建設計画のもと田沢湖町建設の基盤づくり構想に挺身努力され今日の大田沢湖町発展の確固たる礎を築かれた。昭和48年地方自治の振興に尽された功績により叙勲の栄誉を授与され、又町においても最高の栄誉である名誉町民の稱号を贈り、その功績を讃えたところである。この石碑は佐藤信義先生の卓越した先見性と洞察力による数々のご功績を永く後世に伝えるため、大方の賛同者から浄財のご協賛を賜り昭和60年11月、風光明媚の県立自然公園抱返りのこの地に建立されたものである。平成7年10月青心会』
玉川先賢彰徳碑。
玉川先賢彰徳碑について…『仙北平野を流れる玉川の源は、八幡平の焼山付近にあり、強い塩酸泉が湧き出しています。そのために、魚は住まず、農作物の収量は少なく、治水工事もむずかしいことから、毒水と呼ばれ、流域の住民をなやませました。江戸時代の天保・嘉永・安政年間に、角館の田口幸右衛門宗俊・宗辰父子、生保内の平鹿藤五郎は、私財を投じて、湧き出る泉を枯れさせる工夫や、堰を造って熱湯の流れを変えたり、有毒なガスが水に溶け込まないようにするなど、たいへん困難な工事にあたりました。やがて、玉川には魚が繁殖しだし、田地の収穫も増えるようになり、人びとに感謝されました。その後、天災や戊辰の役などがあり、除毒の施設が荒廃しました。慶応年間に鑓見内の小松市右衛門が、同志とともに、再興を図りましたが、残念ながら目的を達することができませんでした。昭和になり、先賢者の尊い意志と、流域住民の強い願いを実現するため、国や県が毒水排除をめざす努力を続けています。この碑は、玉川毒水排除に、私財を投じ、身命を捧げた先賢者の偉業をたたえ、永く後世に伝えようと昭和十三年に仙北教育会が建立し、その後大曲仙北校長会が引き継ぎ現在に至っています。昭和62年10月17日大曲仙北校長会』
佐藤貞子碑(秋田おばこ開拓者)…『神代出身佐藤貞子は幼少より唄と踊りをよくし修練を積んで一流の域に達し横笛名人父清賢と共に大正11年平和記念東京大博覧会全国芸能競演大会に秋田県代表として出演第一位に入賞し以来秋田おばこをもって各種の公共団体慰問奉仕演奏やレコードに吹き込むなど全国的に秋田郷土民謡の声価を髙めた功績は誠に大きいものがあるよってここに記念碑を建てその徳を顕彰するものである。昭和40年10月吉日。発起人田沢湖町郷土芸能振興会。(以下発起人名省略)』
抱返り渓谷は雄物川支流の玉川中流に位置しており、全長は約10km。田沢湖抱返り県立自然公園に指定。東北の耶馬渓の異名を持つ景勝地。名の由来は地形が非常に急峻で狭隘なために、人がすれ違う際、互いを抱き合って振り返ったことに因むといわれます(諸説あり)。回顧の滝までは往復1時間(約1.5km)程度で気軽に行けます。※なお、回顧の滝より先は通行止めになっていました。
案内板。
ミシュラン・グリーンガイド(仙北市観光5スポット)案内板。
武家屋敷通り(☆☆)・角館の町並み(☆)・抱返り渓谷(☆)・田沢湖(☆)・乳頭温泉郷(☆☆)。
遊歩道に入る前から神の岩橋が見えています。
その手前に見える岩は巫女石です。
抱返神社の東、玉川の河中にあります。巫女石は山伏岩とともに伝えられる神話があります。
『大同の昔、何れの国より来れるか、山法師簑を負うて金剛杖をつき、一人の浦若き神女を伴い白岩嶽の峯の薬師に巡詣せんと、此の地に来りしに渡るべき舟とてなければ、手に手をとりて河中に入りしに不思議にも俄かに増水して津浪となりたれば、驚きて山法師は巫女を抱返りて難を避け、山法師一人河に飛び入り辛うじて対岸に着きたるが、巫女もまた山法師の後を追うて河に入りしも水勢強く将に溺れんとする刹那、神霊顯れて「汝驚くなかれ、我は此地を守る明神なるぞ」宣ると共に今まで漲れる大洪水も夢の如く減水し、茲に於いて巫女は斯る霊顯なる神の救い給うは有難き極みであると感激の余り崇敬の念凝りて、巫女は遂に巨石と化し、山法師は対岸の山麓に至りて、巫女を顧れば姿は見えずして越え来し跡に大なる美しき巌の現われ居るを見て、巫女を呼べば巌より声して其の故を告げたり、山法師これを聞きて、斯くも尊き明神のありとは露知らず礼拝を失したるは恐懼に堪えずとて、是より廻国の念を思い絶ち、共に巨石化したりと。』
遊歩道に向かいます。
この鳥居(抱返神社鳥居)が抱返り渓谷遊歩道入口。
遊歩道に入ってすぐに抱返神社があります。
抱返神社については別記事にしていますので、リンク先からご覧ください。
パンフレット(「県立自然公園抱返り案内」古郡蔵之助)より一部抜粋(抱返りの景勝)…『抱返りの奇勝景観は、雄大なばかりでなくその自然美は絶勝の奇巌として限りない史実とともに、郷土のすぐれた存在で、山水の奇なる耶馬渓の右に出ずと評されている。(中略)玉川の清流の音耳にする頃に、東北電力神代発電所に辿りつく、放水路の橋を渡り過ぐればナベッコの煙たなびく川原あり、抱返神社境内に入る、この上流山峡となり、東は奥羽山脈の支峰白岩嶽と相対峙し、西は小影山の雄峰聳え、田沢湖町と角館町を界する、上流十数キロの地帯を「抱返り」と称している。抱返りの全景勝は四季それぞれの変化に富み、春は山桜爛漫として全山をおおい、新緑をむかえて沿岸いたるところ「つつじ」咲き誇り、さらに時過ぐれば紫の花房が楽園の川原に藤波たなびき、秋の紅葉に至りては全山全溪真紅に燃え、わずかなる碧流の淵に水影を映す、その優雅にして壮大なる自然の景観は何人をしても感嘆せしむるのである。抱返りを見ずして紅葉の名所を語ることなし、自然を愛する者この地に至り、自然の楽園に浸り、真の抱返りを語りづづけてほしいものである。一塊の石、一株の樹それぞれ名を成し、全山全溪絶勝の一部とせるも、特に名あるところを挙ぐるならばその数多く、一湯、六滝、三島、十二名所、即ち一湯とは山の湯湧く夏瀬温泉、六滝とは誓願寺白糸の滝、相沢回顧の滝、相沢の奥滝、棚掛の滝、立巻瞰下しの滝、行太沢百尋の滝であり、三島とは玉川の清流に突出する奇巌、巫女石、茣蓙の石、善知鳥の中島をいい、十二名所とは山伏岩、抱返神社、鞍掛の松、神の岩橋、帝釈の岩屋、若狭の急流、誓願寺、小影山、三百の洞門、猿ヘグリ、神代ダム、夏瀬ダム、夏瀬上流を数えるのであるが、附近に旧蹟も多く…(以下省略)』
遊歩道は元々上流の沢々からの木材をトロッコで搬出するために森林軌道が敷設されて名残りです。神の岩橋もトロッコ線路を通して木材を運ぶために架けられました。線路は抱返神社の脇を通って神代駅まで延びていたそうです。
神の岩橋を渡ります。神の岩橋手前には鞍掛の松。岩上の老松。鞍掛の松は前九年の役の時、源義家公大荒田八幡神社付近に帯陣した際、駒を河中に泳ぎ入れる際に鞍をこの岩上に置いたという伝承があります。
神の岩橋…『この吊橋は、秋田県では最も古い吊橋で大正15年(1926)年に完成しました。抱返り渓谷入口の象徴として、昔からその美しい姿を碧水の水面に写しています。この神秘な橋の名は、旧神代村と旧白岩村から一字づつとって名付けられたといいます。真に神秘の渓谷にふさわしい名称といえましょう。』
神の岩橋からの風景。
神の岩橋から見た巫女石。
神の岩橋の下に降りて行けます。
神の岩橋下からの渓谷の風景。
下から見た神の岩橋。はい?写真によって画質にバラツキがあるって?!
散策中に手元が滑ってカメラを落とし…見事に破損させてしまっただけです笑
若松堰。
若松堰の概要。
「土に立つ者は倒れず 土に活くる者は飢えず 土を護る者は滅びず」(秋田県田沢疏水土地改良区理事長御法川英文書)。沿革(裏面碑文)…『田沢疏水の歴史は古く、文政8年(1825年)秋田藩主佐竹義厚公が水源を玉川に求め、奥羽山麓一帯の山林原野の新田開発を目途に、仙南村出川まで約30キロメートルの用水路を開削したことが始まりで、今でも所々に御堰跡が見受けられる。その後幾多の変遷を経て、昭和11年(1936年)田沢湖と玉川の水利用方法を調整し、かんがいと発電を協調開発する方針の成立を見て、田沢疏水開拓が国の直轄事業として昭和12年(1937年)着工となり、戦中戦後の苛烈な社会状勢の中、20有余年を経て、昭和38年(1963年)に完工し、田沢湖町から仙南村まで7町村に亘り2360ヘクタールの開田が造成され、今日の穀倉地帯が形成されたのである。しかしながら極度の物資不足時代の関係ももあり、施設の老朽化が顕著になったため、全面更新を第二期国営事業として昭和54年(1979年)に着工し、抱返頭首工、神代取水工玉川左右岸地帯の幹線用水路30.5キロメートルを129億円の事業費で、平成元年(1989年)に完工し受益面積も3890ヘクタールに拡張された。国営事業に引き続き付帯県営事業として、幹線用水路の末端及び支線用水路13路線28.6キロメートルを約30億円の事業費で昭和57年(1982年)に着工し、またその下流の小支線用水路を最末端まで114.3キロメートルを事業費23億9千万円で、土地改良区営事業として同年度に着工し、両事業とも平成9年(1997年)に完工した。なお、田沢疏水幹線水路東方奥羽山脈裾に広がる山林原野、900ヘクタールを開発するため、神代調整地を水源に国営総合開拓パイロット事業として、昭和38年(1963年)より7年間で開削された第二田沢幹線用水の「水管理自動化施設」を県営事業で平成5年(1993年)に着工、3億8千万円の事業費で平成8年(1996年)完工した。着工以来15年の歳月を経て、このような膨大な事業のすべてが完工したことにより、この事業で造られた施設が地域の発展に大きな役割を果たすことを信じて、水源である抱返の地に、この碑を建立したのである。平成9年10月28日』
回顧の滝まで約1.1km地点。
長くなりましたので『抱返り渓谷 ~ 其之弐』へ続く。
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