
『潮山神社(階上町)』からの続き。

潮山神社の横から山道を通って寺下観音五重の塔跡を目指します。

山道といっても散策路みたいな感じですね。

綺麗に整備されていて歩きやすいです。

途中に鳥居がありました。この鳥居から灯明堂跡までは500m。

ってことは五重の塔跡までは200mですね。

ひたすらこのような風景です。


途中で水が湧いている場所がありました。コップがありますが飲んではいません。

そして「史跡 津要屋敷跡」の標柱があります。

屋敷跡といっても私にはその痕跡がわかりませんが。

標柱より…『燈明堂や五重の塔を建立した津要玄梁和尚の屋敷跡で、正徳2年(1712)、初めて寺下観音を訪れて以来、30余年をこの地方で過ごしたが、その大半の年月をここの草庵で起居し、この地で入寂した。』

「史跡 津要玄梁和尚の墓」標柱。延宝8年-延享2年。66歳。

小祠と墓があります。

祠内。

津要玄梁和尚の墓碑。

標柱より…『津要玄梁和尚は正徳2年(1712)に寺下の観音堂に参籠して「海潮山応物寺廃頽の記」を発見、その後、野沢村彦六の庇護を受けながらこの地の佛法教化活動にその生涯を捧げた。墓碑には「延享二年乙丑前永平祇陀先住石橋玄梁大和尚禅師大閏十二月廿五日」と刻銘されている。』

さて、案内図通りならば、津要玄梁和尚之墓から五重の塔跡まで100mです。

ってことで先に進みます。

到着!海潮山応物寺の五重塔跡。正式名称「五楷堂」(五智如来を本尊とする宝塔)。礎石のみ。

ここに五重塔があったとは思えませんね。

五重塔跡は観音堂の西方、灯明堂近くの標高約210mの山中に位置。元文5年(1740)に津要玄梁和尚が建立発願され、延享元年(1744)に竣工、翌年の延享2年8月落慶。大正2年(1912)8月22日の台風で倒壊し、現在は相輪と、塔に使用された延享2年銘の蟇股や津要の彫刻による壁板が桑原家に残っているそうです。ちなみに屋外の五重塔としては日本最小で、かつては地域のランドマークとして学童の遠足などで親しまれたそうです。また、塔の倒壊を惜しんで階上町役場に塔の模型が制作されております。

復元模型と寺下の五重の塔の現存当時の写真。


五重の塔跡…『津要玄梁和尚が五重塔の建立を思いたったのは元文5年(1740)のことで、それから4年後の延享元年(1744)に完成、明けて延享2年8月4日に五重の塔の落成供養を執行している。その後、数次に渡って修覆されたが、大正2年(1913)の8月22日、暴風雨のために倒壊した。相輪の高さ7尺(約2.12m)、塔身32尺(約9.70m)、総高39尺(約11.82m)で我が国建築史上極めて異色の五重の塔であったと言われている。桑原家に保存の「五重宝塔修覆勧化帳」には、「津要玄梁和尚が仏法に無縁の衆生を済度せんと思いども妙案浮ばず、此上は仏意に任する外なしと観音に詣で、飲食を断ち、祈誓する事七夜、満散の暁、観自在菩薩が夢中に現れ、=善哉汝無縁の衆生を度せんと思わば、五重宝塔を営み、五智如来を本尊となし、五大力菩薩、五大尊を安置し、又、宝筐印陀羅尼佛、母陀羅尼佛、光明王陀羅尼佛を塔内に納むべし=と託宣、元文五庚申年より思い立ち、延亭元甲子年まで鉄石土木の功積りて宝塔成就と那る-中略-寛政五癸丑年(1793)十月吉辰 勧行主 八戸大工甚六 別当 野沢村 彦六」とある。現在地 階上町大字赤保内字寺下六の二。平成4年3月階上町教育委員会』

五重の塔遺影。

小祠がありました。

五重塔との関係性はわかりませんが祠内には恵比寿様&大黒様。

『燈明堂跡(階上町)』へ続く…

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