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大館市比内町扇田字本道端。
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扇田村についてです。『浅利則頼侍分限帳写』に、浅利家の小姓佐藤与三郎は扇田村、歩行頭の斎川甚右衛門は長岡に居住と記載。永禄年間頃に独鈷城主浅利勝頼は当村に長岡城を築城し、片山駿河守某を置きましたが、天正10年檜山城主安藤愛季に内応した片山氏らは当城で主君勝頼を謀殺したと伝えます。城は米代川・犀川に挟まれた独立丘陵を利用、周囲に帯郭がめぐり、西端部に三角形状の腰部を配置。犀川に注ぐ小川を濠に利用し、館神は八幡。秋田家の保護を受けた城下町としての機能のほか、米代川舟運の舟着場、鹿角・大葛への陸上交通路の要地、二井田を経て綴子方面に抜ける脇街道の起点でもあるという条件のもと大きな町場が形成されていたそうです。水陸交通の要衝を占める位置付けは藩政下でも強められ、陸路は鹿角街道・大葛金山街道等の羽州街道脇の結節点、水路は米代川廻船の拠点として宿駅・船宿が置かれ、三斎市を開催、物資の集散地として活気を呈しました。枝郷宿内村の民家は町場に移住し、延宝5年開邑の市川村も町場の発展につれてその一画を占め、神楽町と称しました。寛文9年には馬頭が置かれ馬市開始。享保11年には17家が酒屋株を持ち、大坂屋等上方商人の宿名も見られます。慶応4年の戊辰戦争にて全域が戦場となり村内は灰燼に帰しました。扇田村の鎮守は神明社であり、市神も合祀。他に稲荷社、八幡社、相善社を祀ります。寺院は当村の有徳人小林徳兵衛が檀徒として開基したという浄土真宗大谷派小林山徳栄寺をはじめ、同派藤庭山長泉寺、曹洞宗薬王山寿仙寺、浄土宗法王山正覚寺、日蓮宗安入山寂光院の5ヶ寺、修験に扇田寺、本覚寺、南光院。
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扇田は八郷の中心地で、大葛、尾去沢鉱山への集散地として古くから市が立ち賑わいました。市の商人たちが商売繁盛を願い、市神様として祀ったのが市神神社の始まりです。
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古くは新館野にあったといわれ、いつのころからか大町に移り、明治の中頃現在地の東側、現在の国道285号線に移り、道路工事により昭和57年に現在地に遷座。現在の講中は商工会加盟店主によって昭和29年結構され毎年7月4日祭典を行っています。御祭神は大市姫命で、市を司るとされます。
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隣の建物。
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馬頭観音です。
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境内には扇田市神講などの石碑がいくつかあります。
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一度は石碑の内容を書き起こしたのですが、何とテキストファイル破損により復元できなくなり、心が折れたので内容は掲載しません。しかも写真(画像)も数枚破損。
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案内板より「市神神社」…『八郷の中心地であり、米代川最上流の船着場として、大葛金山、尾去沢鉱山への荷物集散の中心地であった扇田には、古くから市が立ち、大いに賑わいました。その市の商人たちが商売繁盛を願い、市神様としてお祀りしたのが市神神社のはじまりと考えられています。古くは新館野にあったと伝えられていますが、いつの頃か大町に移り、明治の中頃現在地の少し東側、現在の国道285号に移りました。現在地へは道路工事に伴い昭和57年遷座しました。現在の講中は商工会加盟店主によって昭和29年結講され、毎年7月4日祭典を行っています。祭神は大市姫命で、市を司るといわれています。御神体は明治期に扇田神明社に合祀されましたので、毎年の祭典では「お掛け図」を拝礼しています。』
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案内板より「馬頭観音」…『市川並びに各地にあり、人間に使役され非命にたおれた馬を祀ったものであるが、自分の飼育する馬の安全無事を祈願するようになった。相善様と一般に言われており、絵馬を奉納したものである。旧5月5日の祭典。観音像の宝冠に馬頭がつけられている。』
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神社の近くには道の駅「ひない」があります。「はいってたんせ」。
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比内地鶏ラーメンが好きなのでよく食べに行ってます。
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比内地鶏卵ソフトクリーム。
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おみやげラーメン(自分用)。
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