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青森県下北郡大間町大間。大間町立公民館に隣接。台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県の北港朝天宮と姉妹宮です。
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主祭神は稲荷大神ほか、天妃媽祖大権現、金毘羅大権現、奥津島姫尊を合祀。例祭日8月10日。享保15年7月、新田市左衛門の勧請により、百々滝稲荷大明神として崇敬驚く、明治6年拝殿を修築し、同6年5月23日社寺調査により村社に列せられ、大正13年6月13日付をもって神饌幣帛料供進神社となります。昭和21年6月14日付をもって宗教法人令に適用され神社庁に届出。国有境内地を有償払で許可。なお、享保年間の棟札が残っており、裏には八大竜王大難即滅と書かれ、海神に祈りを込めているようです。
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例大祭には神輿や京都祇園祭の流れを汲む4台の山車が町内を巡ります。平成8年には天妃勧請300周年を記念として「天妃様行列」がスタートし、以降海の日には御神体を引き連れた守護神や龍踊りなどの列が銅鑼や爆竹を鳴らしながら海上安全などを願い町内を練り歩きます。
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大間稲荷神社は、古くは幣帛供進の指定神社で、百滝(ももたき)稲荷大明神と称しました。御祭神は倉稲魂命で、8月10日を例祭日としていますが、天妃神を合祀する以前は例年3月10日と7月10日でした。天妃神の大間遷座は元禄9年7月、大間村に天妃神大権現祠が建立されたのは享保11年9月23日。享保15年7月、能登屋市左衛門の勧請。寛政6年には近隣の村と共同で神輿を購入し、寛政9年に初めて行われた神輿渡御は、当時の村長山崎弥兵衛、老名伝法屋久助、能登屋市左衛門、伊藤久右衛門らが勤めて荘厳を極めました。享保15年に社殿改築、寛政5年にも修繕を加え、明治5年に再改築、同18年6月20日に現在地へ奉還、同42年4月20日再々度改築の上奉還。この間、明治初期の神仏分離令により天妃様の扱いに困惑した伊藤家の子孫が明治6年に稲荷神社(享保15年に新田=能登屋=市左衛門が宇迦乃御魂神を祀るために今の公民館前に建立)へいったん天妃神と金比羅神を合祀して、同15年5月現在地へ遷座。その後も天妃神は船魂守護神として、広く地域の人々の崇敬を集めています。なお、当社を管理していた修験の和光院はその後5代の相続があって明治2年5月に神官となり、同6年3月に免ぜられて松林清記祠掌兼務となりました。本社の御祭神は倉稲魂命に加えて、天妃媽祖大権現、金比羅大権現、奥津島姫尊の三神を合祀。金比羅様は新田家の氏神で、現在は稲荷神社の末社。天妃様は伊藤家の氏神で今は稲荷神社に合祀。
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媽祖は日本在来の船玉信仰や神火霊験譚と結び付くなどして、各地で信仰されるようになります。江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されていますが、東北・北海道地方における天妃様はここにしか祀られていません。
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古くから漁村として海の神を祀ってきた大間ではとりわけ天妃様として知られる中国の媽祖信仰は古くから盛んでした。主として海難救助の神とされていますが、後年この世のあらゆる願い事を叶えてくれる現世利益の神として深く広く信仰され、現在も中国をはじめ、台湾、東南アジアなどで信者を多く持っています。台湾の北港朝天宮が天妃様の総本山といわれ、文化大革命後、信仰が自由になった中国では天妃廟が次々と復興しています。天妃様は960年3月23日、中国の福建省興化府蒲田県■(=サンズイに眉・びしゅう)州島で生まれ、987年9月9日、同地で27歳の数奇な生涯を閉じました。4、5歳から天分が見られ、9歳で禅宗・般若教の中の金剛教を理解、15歳で儒教・仏教・道教の経典を身に着けた天才でした。16歳からは人間離れした力を発揮し、特に遭難船の人命救助や妖怪退治に神力を見せ、自由に雲に乗り、むしろを敷いた海上を歩いたといいます。
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いつどのような経緯で大間に来たかは不明ですが、九州の薩州野間半島から来た説と、水戸の那珂湊から来た説があります。寛政5年3月23日、大間を訪れた菅江真澄が記した「大間天妃縁起」が稲荷神社に保管されており、それによりますと「みちのおくの国、糠陪の郡といふ北部おくののうまきの辺、大間の浦に天妃のかんやしろあり。そのゆえをとへば元禄九年のころ、此浦のをさ伊藤五左衛門といふがここに祀る。(中略)いつのことであったか、この浦の船、越前の船、もう一艘どこかの国の船が、大時化に遭って難破寸前の危機にされされた。このとき、大間と越前の船乗りたちが一心に天妃の神を念じたところ、暗雲の中から天妃神が姿を現し、左右の手と口にくわえた三本の綱で船を曳き、救出しようとした。このとき天妃様の姿を見た船乗りたちはさらに大きな声で天妃の名を呼ぶと、それに答えようとした天妃の口からくわえていた綱が離れてしまった。その一艘はたちまち激浪に呑まれてしまい、ひたすら天妃の加護を念じた大間と越前の船は危機を脱した。これ以来、船主(伊藤五左衛門)が天妃様を祝い祀ったものである。(※以上大要)」。年月日に「三河国秀雄」と記名し「天妃の祠に奉る」として、「をる機のさをなくるまのいとま浪猶ふなをさや神の護るらん」の歌で結んでいます。伊藤五左衛門は15歳の時にこの地に来て村長の地位にまでのぼり詰めた薩摩男児であり、もう1つの水戸から来た説は「御領分社堂」(1751-56編纂・岩手県郷土資料館)によります。ちなみに神社由緒並びに境内伊藤五左衛門顕彰碑によりますと水戸から来た説になっています。
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社殿。
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拝殿向拝神額「稲荷宮」(明治)。
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拝殿内。立派な獅子頭や絵馬等が見えます。
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神社入口にある伊藤五左衛門顕彰碑…『元禄9年(1696)7月23日伊藤五左衛門、水戸の那珂湊より天妃船霊神を大間村へ遷座しました。』
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連続テレビ小説「私の青空」ロケ地(結婚式場)。
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手水舎。
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石灯籠一対。
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狛犬一対(明治38年3月)。
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御神木と石。結構石がありますね。
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皇威宣揚。
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天妃神拝殿。
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御祭神天妃大神。
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千里眼、順風耳、ナタ太子など天妃様行列に出る方たちが勢揃い。
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かなり台湾感(異国情緒)が出ております。天妃様行列楽しそう!
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天妃像やぐら。天妃様はいません。隠れていますが後ろに「光澤四海」(日本大間神社天妃遷宮300年記念)と書かれた額があります。
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ちなみに天妃像(制作年代:江戸時代)は稲荷神社拝殿にありました。
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木造天妃倚坐像及び侍女立像の修復工程についての案内板。
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東京藝術大学大学院美術研究家文化財保存学専攻・保存修復彫刻研究室によって2016年4月-2017年4月に修復されたようです。
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天妃神の額、台湾北港朝天宮ペナント、日本の天妃分布図などなど。
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媽祖(まそ)…『宋の建興元年(960)年、旧暦3月23日、福建省興化府蒲田県の東南、■(=サンズイに眉・びしゅう。※以下■は同様)州の小島で生れた。1ヵ月たっても泣かず、「黙娘」と呼ばれた。幼少の頃から非常に聡明で、4・5才には兄姉たちも太刀打ちできなくなっていたという。9才で金剛経に親しみ、15才には三教(儒教・仏教・道教)の本を読み尽くしてしまった。長ずるにつれ彼女はますます神性を発揮しはじめる。17才のときのこと。■州港内で一隻の商船が暴風に遭い、転覆してしまった。それを見た黙娘が、道端の草を取って海に投げると一瞬にして木に変わり、舟人はそれにしがみついて助かったという。また19才のときには、家で機織りをしているうちに疲れてうとうとしていると、父と兄が海で遭難する夢を見た。夢の中で媽祖は、やにわに海中へ飛び込み、兄を口でくわえ父を手で引っぱって荒波を泳いでいるとき、途中で母に起こされた。媽祖は呼ばれて返事をした時、兄は口から離されてしまった。いつになく動揺している娘の様子に驚いた母親が、ようやく夢のことを聞き出した正にその時、使いの者がやってきてふたりの遭難を告げたのだ。兄は溺れ死にし、父だけが助かったという。21になった年、福建省一帯は旱魃に見舞われた。河は干上がり井戸は枯れ果て、田の稲は絶望的。手の施しようもないありさまに困り果てた人々を救ったのが媽祖だった。県の役所の招きで、天地を焦がさんばかりに照りつける中天の陽に向かい雨乞いをすると、たちまち空はかきくもり、人影も見えないほどの雨が降りはじめた。人々は飢饉を回避できたことを歓び、媽祖を称えた。23になったとき、■州の西北桃花山に金精と水精が現れ、付近の作物を荒らしはじめた。被害を聞きつけた媽祖が山に登り、金精と水精に向かってうす絹のハンカチをひと振りすると、彼らは目がくらみ手がしびれ、持っていた斧を投げ捨てて媽祖の前にひれ伏した。この金精は千里眼という別名をもち、千里の遠くを見はらすことができ、かたや水精は順風耳といって、千里のかなたの物音を聞きとる超能力を持っていた。媽祖は彼らを許すかわりに、その力を人々のために役立てようと海上を守る仕事を手伝わせることにした。以来千里眼と順風耳はこの女神を助け、守護の任にあたることになった。媽祖廟に行ってみると正面祭壇の両側に、右手で斧をもって左手をかざして遠くを眺める千里眼、二股の矛を右手に左手で耳を指している順風耳の像が立っているのが分かるだろう。28になった媽祖は、泣いて引き止める家人に別れを告げ、「人々を救わん」と海上を歩いて■山に登っていった。そのとき足もとには風が起こり、雲が生じた。媽祖を見送る人々の目に、神となって光り輝く雲に乗り、天上に赴く神々しい姿が映ったそうだ。神の世界に入った媽祖はますます力を発揮し、台湾海峡でたびたび起こる海難事故の多くを救い、奇跡をもたらした。その神跡は中国の史書にも数多く書きとめられ、伝説を残した。人々の心にいかに根強く媽祖信仰が定着しているかは、各地に立てられた夥しい廟の数からも、おのずと知ることができよう。』
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西参道鳥居。
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福蔵寺の八大龍王殿から見た大間稲荷神社。
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大間稲荷神社の由来…『百滝稲荷大明神と称し、倉稲魂命を祭神とし8月10日を例祭日とする。享保15年(1730)7月能登屋市左衛門が勧請。御輿渡御の始りは寛政9年(1797)で荘厳を極めたと伝えられる。明治6年(1873)天妃媽祖大権現、金毘羅大権現を合祀、現在は弁天神(奥津島姫尊)も合祀している。明治16年(1883)現在地に移転、再建。明治41年(1908)屋根の形を改修現在に至っている。天妃の神は中国の道教の神で、元禄9年(1697)7月23日、後に名主(村長)となった伊藤五左衛門が海上での危難を助けられた神徳を崇め水戸領那珂湊より遷座したもので、船魂神として氏子の崇敬を集めて来たものである。稲荷神社神歌…「天の岩戸おし開く いざや神楽舞あそび 神を勧めて伊勢踊り 清が三尺の剱を抜いで 悪魔を祓ってそれからせ 太平楽能をあらたまる」』
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