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曹洞宗高林山大海寺。青森県下北郡風間浦村蛇浦。折戸神社のすぐ近くです。田名部海辺三十三観音札所巡り第15番札所(聖観音像)。御本尊釈迦牟尼仏。尊像は第15番札所観世音菩薩・延命地蔵・聖観世音菩薩・金毘羅像・地蔵菩薩像・賓頭盧座像。
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新撰陸奥国誌では「慈観軒境内五十坪本村の中西にあり大畑村大安寺の末庵曹洞宗なり、慶安二年の草創なれど開庵の僧も詳にせず、庵東西六間南北七間半東向本尊釈迦」とあります。風間浦村誌では「蛇浦の慈観庵は慶安二年三月の草創である。」とあります。大海寺の書上には「慈観庵の開庵は、享保十九年八月二十五日寅開庵、大安寺五世庵主無徹智門上座開基、開創は不詳。」とあります。草創の和尚のことは過去帳等に一切残っていませんが、以前に寺前の墓地に建立され、後にやすらぎ霊園に移転された墓石に、慈観庵二世のものと思われる墓石(寂当庵二世全芳宣戒和尚品位)があります。
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慈観軒が草創されて85年後の享保19年に慈観庵とした大安寺五世無徹智門上座までの書上はなし。この期間の慈観軒は修験者が居たり、短期間和尚が居たりしましたが、無住の期間が多かったと考えられます。安政元年、大安寺13世裏海中代和尚(義堂泰賢)が、海上安全・漁業満足を祈願して金毘羅像を奉納し、漁民を集めて開眼式を挙行してから、毎年金毘羅祭を開催。明治29年前後■(示+石)関喝玄和尚が庵主として布教に精進。明治末期から大正2年10月まで長岡泰隣和尚(大安寺18世)が下風呂・自由庵に入庵していた時期に慈観庵を兼務していたと考えられます。
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昭和14年11月12日、高山麟童和尚が入院してから布教を始め、寺の行事も年中行事として行われるようになったといわれます。麟童和尚は明治41年1月28日、岩手県九戸郡名川町清光寺の生まれで、昭和4年曹洞宗立梅壇中学を卒業後、北海道で修行をし、慈観庵に主幹として入庵。昭和27年10月金毘羅堂を新築。昭和43年12月10日大安寺19世長岡大仙義海代に高林山大海寺を開山。昭和58年本堂新築(大海寺3世丈二師)。
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『大海寺は、昭和14年、長年にわたって無住で荒れ放題の庵寺であった慈観庵に、高山麟童和尚が庵住として入院、本格的寺院活動の傍ら金毘羅堂の増改築など寺昇格の整備をし、昭和43年12月10日、師である大安寺19世の長岡義海(大仙義海)和尚を勧請開山に立て、自らは大海寺2世となり、寺格を得たのが始まりである。聖観音は、須弥壇の本尊釈迦如来像の両側に脇侍として安置されているが、右側が77cm、左側が72cmで、どうやら一対のものではなく、別々の年代に安置されたものと思われる。』
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さて、室町時代から知られる湯治場、井上靖や水上勉も訪れた下風呂温泉(硫黄泉)に行き、あさの食堂で、うに丼とあわびを食べて帰ります。
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色々な組み合わせができました。ちなみに訪問日は旬の頃です。
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ごちそうさまです。
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