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秋田県大館市二井田贄ノ里。館町内会館隣り。「錦神社」等の記事も参照ください。
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史跡贄の柵城跡には神社が鎮座。
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左の建物は館町内会館。
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「史跡贄の柵城跡」標柱。
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史跡贄柵跡(城主河田次郎没後800年記念に因んで)…『藤原泰衡は今より800年前、文治5年(1189)源頼朝と厨川の戦に破れ祖先永住の居城を捨て北上し、出羽の国の重臣であった出羽の国比内郡の贄柵の河田次郎を頼って、部下3名を連れて逃れて来た。当時河田次郎は此の度の戦には、遠隔の地である上、事件が急であって参戦に間に逢わず遠くから世の形勢を観望して居た。そこへ領主である泰衡が敗残の将として現れたのである。贄柵は壮大な館を構え、国隣へ武勇を轟かし、実直で人望の高い武将であったので領主である泰衡を手厚く迎え接待していたが、鎌倉方からの追及が激しかったので度重なる城内会議など、その物々しさに切羽詰まっている状勢を察知した泰衡は、自分が居ては迷惑をかけるばかりだと判断、館を逃れ川向いの葦原の中で自害して果てた。次郎は困り果てたが死んでしまってはどうにもならず、泰衡の首を持って鎌倉方へ届け出た。だが頼朝は、主君である泰衡の首を切るとは不忠にも甚だしいと、次郎に逆臣の罪を冠せ断罪に処した。館に残った一族の豪族化を恐れた頼朝は、猜疑心が強いので一族断絶の命令を下しその刑を執行したのである。今、下高村を「ハリツケバ」と言うが、当時の一族の刑場であったと伝えられている。その後、館町内の人々は、かねてから次郎が氏神として城内で崇拝した諏訪八幡神社と、泰衡の霊を祀る錦神社の二社を大切に維持して現在に至っている。平成元年11月28日大館市老人連合会・二井田地区老人会連合会・館町内会』
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案内板にある諏訪八幡神社はここから少しだけ離れた場所にある二井田八幡神社(元諏訪八幡・通称泰衡八幡)のことです。こちらは二井田愛宕神社とのことです。
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社殿内石祠棟札には「愛宕神社」「稲荷大神」「七面大神」などと見えます。
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その他諸々。白鳥が凄いですね。
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御神馬。
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