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関興庵の横(墓所へ向かう道)に鳥居と参道があります。
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南方稲荷大明神。社殿内に狐一対、灯篭一対などありました。
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拝殿扁額(青木源之助)。
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『正一位南方權現渡部藤兵衛稲荷大明神の祭神は、天正6年に始まる上杉家合戦に際し、関興庵勢より援軍、無類の働きをなし、利運を導きたる上杉家の鎮守稲荷明神の化身渡部藤兵衛にして、その稲荷堂は寛永2年建立されたるも寛永8年諸堂焼失、文政7年粡町よりの出火にて類焼す。明治35年7月1日、有信の諸士により五十嵐大工の手に依って建立された。更に明治40年6月崇信講社の結社により拝殿建立の日、7月1日を毎年の祭日と定め、永く祭事が施行され今日に至っている。此の間大正3年5月青木源三郎氏によって後方三尺増築され昭和44年、青木源五郎氏によって土台の取換え一部増築をみた。今回、末弟青木源之助の17回忌法要に当り妻トラ及び長男進、次男仁、参男礼、相計り供養の為拝殿を再建する運びとなる。建設に協力された方は源之助次兄青木源四郎嗣子清氏および源之助長姉片桐やす養子片桐栄吉氏である事も何かの因縁と申せよう。北寺町在の青木源三郎、源五郎、源之助兄弟は崇敬篤信の念厚く、生誕地への情愛殊の外深く如意輪観世音菩薩本尊の彫刻、本堂の建設又大鳥居三基を寄進す。今新に拝殿を再建し祭事の継続隆昌を願うは子孫にとり望外の喜びである。落慶式に当り寄進の意を表し、この地の繁栄を祈る。合掌。昭和54年11月18日。在東京、青木トラ、青木進、青木仁、青木礼。』※当案内板では「渡部藤兵衛」となっていますが由緒によると「渡邊(渡辺)藤兵衛」。
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石灯篭。
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社殿のすぐ横にあった古そうな墓碑。「廣居忠久之墓」とありました。稲荷との関連性はわからず。「天保四癸巳年二月二十五日」。
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