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東京都中央区日本橋茅場町。日枝神社摂社と境内を接し、日枝神社の兼務社となっているようです。
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翁稲荷神社と祇園稲荷神社を合祀しており、境内の幟にもその名が見えます。
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御祭神は宇気母智神。谷崎潤一郎の『幼少時代』『ふるさと』に書かれており、「電車通りをまた東へ越えて茅場町の薬師の地内に入る。薬師堂、閻魔堂、大師堂、日枝神社、神楽堂、浅間神社、翁稲荷、天満宮等々が小公園ぐらいの広さのあった地内に点在し(中略)今は境内がずっと狭くなっている。私にはお閻魔様の顔が一番記憶にあるのだけれども、その閻魔堂は跡形もない」とあり、谷崎潤一郎の記憶にある明徳稲荷はこの地より東の霊岸橋近くにあったようで、翁稲荷と合祀しています。
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狐一対。
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手水舎。
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こちらはかつての手水石かも知れません。
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石灯篭一基。
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宗教法人明徳稲荷神社由來…『当神社は遠く元禄の頃より南茅場町「現茅場町一丁目」の稲荷社として現六番地附近に鎮座し、明治18年回禄の災後は社殿神楽殿再築せられ、町内睦組方々により日枝摂社、薬師堂と共に江戸の御縁日の情緒豊かに霊験崇かなり。大正12年関東大震災後小宇再建間もなく區劃整理にて14番地「十四坪六合」の換地に社宇再建せられたるも昭和20年3月戰災に依り烏有に帰せしにより、当時の責任役員、岡本保之助、遠藤金之助、深澤常藏、近藤喜代二、遠藤正喜の五氏に依り審議の結果再建する事となり昭和24年社殿も復興し益々社運の御隆盛を見るに至れり。然るに偶々東京証券会館建設に当り神社御遷座の懇請を受けたるも、将來神社の繁栄並に町發展を考慮して数ヶ年に亘り、之を廣く相諮り御遷座地の選定に慎重を期したるところ、責任役員代表町会長大部芳之助氏が知人小澤猛氏の熟知大阪精糖株式会社所有地「二十九坪五合三勺」が日枝摂社の神域に連らなり代替地として最適地と大部氏之れを認め、責任役員、総代並に町会役員全員の賛成を得て、早速東京証券取引所に交渉開始再三協議の結果、昭和38年6月再建を完了し荘厳なる遷座式典等滞りなく挙行せられ今日の厳粛なる神苑の完成を見るに至れり。尚翁稲荷神社は摂社境内に鎮座しあり一時喜可久氏庭内に預りしも後明徳社に合祀鎮座申し上く。祇園稲荷神社は震災前に町内に鎮座せられるに依り、責任役員、総代会に諮り翁社共々合祀申し上げ現在に至る。』
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大部芳之助氏顕彰碑…『当神社境内は元十四番地に十四坪六合の土地を所有せし処東京証券会館建設敷地に隣接せる為、神社御遷座の懇請を受け当時の役員関係者一同は数年に亘り協議を為し日枝摂社境内に建立すべく本社に交渉せるも諸條件等受け入れられず、その儘と也或時は移転費用に依り町会事務所を建設して其の屋上に御遷座申上げ度等諸案続出せるも適当の地なく苦慮の折偶々新任せる町会長及代表責任者、大部芳之助氏は知人小澤猛氏の熟知大阪精糖株式会社所有地が日枝摂社の神域に連り有るを知り是れこそ明徳社の御繁栄と町発展の為の御遷座申上げるに最適地なりと認め責任役員其他関係者一同の協賛を得て早速東京証券取引所に交渉開始再三協議の結果二倍に余る、二十九坪五合三勺の敷地「金22,442,800円」と御遷座費「金1,558,269円」更に基本金として金壱百萬圓也「現在銀行定期予金中」合計金二千五百萬余円に及ぶ寄贈等重大なる條件悉く圓満裡に解決し爾来遷座委員長として二年有半に渉り凡ゆる困難を克服し東奔西走茲に神域として誠にふさわしい、現在の地に昭和38年6月盛大なる式典と共に御遷座申上げ今日の厳粛なる神苑の完成を見るに至りたる事は、大部芳之助氏の責任感の旺盛と人徳の然らしむる処にてその功績は洵に大なるものあり、茲に有志相謀りその偉徳を顕彰し以って此の碑を建立するもの也。』
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