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秋田県鹿角市十和田瀬田石八幡平。かつての瀬田石村。陸奥国鹿角郡。
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『鹿角由来記』に「瀬田石村、瀬田石太郎左衛門領知、館有り、本名奈良。後に毛馬内大学領知、家来月館隠岐知行分。志和の陣の時、隠岐武士(壱人)奉行にて沙汰し、忠を致す。闌て月館村七百石下さる」とあります。月館村と瀬田石村との関係は不詳。中世奈良氏の勢力圏で、戦国末期南部一族毛馬内大学領になったことが知られています。地域内の小館根に空濠のある館跡があるそうです(未確認)。「西深山、秋田領に嶺或は川を以て界をなす」という国境の村で、『邦内郷村志』に修験喜楽院を別当とする八幡宮、修験不動院を別当とする伊勢宮を祀るとあります。明治44年には一時月山神社に合祀されているようです。
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石灯篭一対。
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石灯篭の横に立派な切株がありました。
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かつての御神木ですね。立派です。
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何らかの理由で境内の御神木は伐採されたようです。
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よって境内は切株だらけです。
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手水石。
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社殿。
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向拝神額。
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拝殿に由緒がありました。瀬田石八幡神社縁…『当神社は中世紀末の天文年中(5年・1536)に南部氏22世政康の五男武田(毛馬内)靫負佐信次が三戸から毛馬内に移り瀬田石も領したことにより永禄年中(1556)瀬田石村集落の北の端に八幡宮を再建したのが始まりといわれる。鹿角郡市における八幡宮の最古の記録となっている。次いで寛文2年(1662)に毛馬内城主(柏﨑舘)桜庭兵助光金が再建し社領として3石を寄進している。元文年中(1736)別当覚蔵坊の死去により、毛馬内不動院の弟子喜楽院が後取になり幕末まで続き藩政時代には旧8月の祭礼の日に流鏑馬の行事があったと伝えられる。瀬田石村の歴史をみると鎌倉時代以降の中世には鹿角四頭の一人奈良氏につながる瀬田石太郎左エ門が領した後成田氏につながる毛馬内大学が領しその家耒月舘隠岐(津嶋姓)の知行地となっていたこともある。明治後期(41年)政府は法律をもって神社合併の制度を布した為不得意にも鹿角総鎮守の県社月山神社に合祀移属された。其の後政府は神社跡地を処分することになったので敬神社たる部落民一同の名儀をもって永久に保存する為当地は古来瀬田石部落の氏神たる八幡神社の鎮座せる土地で同神社の所有である事を陳述致し拂下を願った所部落の希望に基き次の条件のもと無償で贈与された。その条件として八幡神社の鎮座地及その境外地は永久に所有し益々敬神の途を開き子孫孫子代々に至るまで此の土地に対して家督相続以外の移転登記並に設定等の行為はあるべからず事堅く約束して昭和5年5月11日贈与が成立致して居る。その後昭和41年4月現在の社殿は鹿角市錦木大欠の棟梁米沢準吉氏に依り再建され現在に至って居るものである。祭礼日4月15日・9月15日(旧8月15日)。祭神誉田別命(八幡太郎義家を祀る)。(柳沢兌衛識)平成8年4月15日建立』
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拝殿内。
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右に神明大神の石祠が見えました。御祭神は天照大神。
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社殿横の建物。
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中央の三社宮。
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真ん中の扉が開いており、何やら木の棒が見えました。足を模っているようにも見えます。秋田県内でたまに見かけます。足手荒神という民間信仰があり、手足の病気や怪我に悩む者がその快癒を祈願するもので、手型や足型を奉納します。
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向って左の石塔は馬頭観世音のように見えます。
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向って右の石祠は稲荷様のようです。
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境内にあった忠魂碑(豊口辨司敬書)です。
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裏面碑文「大正9年10月26日瀬田石青年會建之 陸軍歩兵上等兵齊藤三太 明治38年3月7日於奉天 戦死」とあります。日露戦争ですね。
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神社入口付近にある庚申塔。
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「弘化2年」「文化8年」などの紀年銘が見られます。
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防火水路記念碑(大正13年9月建立)。
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