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東京都中央区日本橋人形町。
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創建不詳。はじめ御殿山に鎮座。後に江戸城内へ移り、更に将軍家御典医岡本玄冶に下賜されて、岡本玄冶の邸(新和泉町)があったとされる当地へ移転。岡本玄冶の元姓である橘に因み橘稲荷と称されていた伝えます。
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近くにある玄冶店跡。
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古地図でも「橘イナリ(橘稲荷)」の下に「ケンヤタナ(ゲンヤタナ)」と見えます。
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玄冶店跡(中央区日本橋人形町三丁目八番付近)…『江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれてました。岡本玄冶(1587-1645)は京都に生まれ、医術を曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に学びました。元和9年(1623)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院(けいてきいん)と号しました。三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。「寛政重修諸家譜」には、寛永10年(1633)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。岡本玄冶の拝領屋敷は「寛保沽券図」によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保2年(1645)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永6年(1853)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。平成16年3月中央区教育委員会』
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橘稲荷神社の御祭神は倉稲魂大神。
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手水石。
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狐一対。
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橘神社社修繕寄附芳名碑。
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橘稲荷神社由来…『このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜わって当地へ移された。稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。安政6年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。平成2年8月吉日橘稲荷御造営奉賛委員会』
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