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山形県米沢市城北2丁目(江戸時代の出羽国米沢藩の米沢城下、明神堂町北端)。粡町は米沢城の北部に位置し、江戸期は米沢城下の内で町人町の1つ。奥羽編年史料抄の天正15の条に米府鹿子をひいて上杉氏入封の慶長3年以前からの町名として六町市場の1つに粡町と記されています。寛延2年の書上げによりますと、はじめ新町と書きましたが、江戸中期以降、粡町を用いるようになったそう。江戸期市場町として許された大町・東町・柳町・立町・南町とともに6町の1つ。地内には米座があり、源吾屋と称する米商人が領内の米穀流通の統制にあたっていました。慶長年間にはこの源吾屋が10軒あったといい、粡町の粡(籾の別名)は米屋の町に由来。古くは暦仁年間(1238-1239)長井荘の地頭大江時広が再興したと伝える白子神社の門前町として発達しましたが、上杉氏の入部後に同社は慶長年間の城下拡張に伴い、元籠町を経て明神堂町に移されました。白子神社は置賜郡の総鎮守で、新町として栄えた江戸初期には神社前に9月1日から15日まで毎日市が立ち、最終日には1年間の穀物の値段の高低を占う綱引き行事が行なわれました(白子大明神に大注縄を寄進し、古い注連縄を用いて東西に別れて綱引きで米価を占い、東が勝てば高値、西が勝てば安値)。後に綱引き行事は正月15日に変更され、旧式による神事は神社が移ったあとも幕末まで続けられたといいます。明神堂町は米沢城下の内で侍町の1つ。地内北の一画を白子神社が占めます。町名は白子明神参道に沿っていることに由来。享保10年の御城下屋敷数書上帳によりますと、長さ2町22軒・道幅5間、家数8軒、うち1軒厩屋敷、横町1筋とあります。弘化3年の屋敷割帳では侍屋敷5軒・明屋敷1軒が見え、西側は宝珠寺境内となっています。白子明神の東側一帯が、慶長18年に上杉景勝の手になる北追廻しの馬場で、中通りに桜の並木を作ったので桜の馬場と通称されました。米沢藩の馬術は人見流馬術の達人であった人見宗次を総監として諸士の稽古に当りました。当馬場は馬術のみならず弓術試合場や鉄鉋打場としても併用されました。馬場に付属して馬場御殿(松桜館)があり、馬場への御成り御殿であるとともに迎賓館の役も果たしたそうで、細井平洲がはじめて米沢を訪れた際に松桜館を宿舎としています。
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御祭神は火産霊命、埴山姫命。米沢の鎮守、養蚕の神様、町人町の神様として信仰されてきました。神社名についてですが、神のお告げによりこの地に蚕が生じ、桑林が雪のように白くなったことに因んで白蚕村と呼び、白蚕(白子)明神を建てたとの伝承があります。旧社格は県社。江戸時代の城下絵図には「白子大明神」とあります。
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白子神社は和銅5年(712)の創建。承平2年(932)出羽国国司の小野良春により社殿再建。暦仁元年(1238)に領主の長井時広により再興されて置賜郡総鎮守となり、以後伊達氏時代にも崇敬され、文禄年間に蒲生氏郷により米沢城鎮守とされ、その後米沢城主となった上杉景勝重臣の直江兼続や上杉氏からも引き続き米沢城鎮守として崇敬。慶長3年(1598)には直江兼続が社殿修理を行いました。
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米沢藩主家上杉氏より石高50石を拝領され、明暦2年(1655)には境内での寄宿、伐木、殺生を禁止。寛文4年(1664)に上杉綱勝の急死による上杉綱憲の末期養子相続で、米沢藩が30万石から15万石に半減されると石高25石になります。元禄6年(1693)に正一位となると「上杉家典礼略志」にあります。明和4年(1767)に上杉氏家督を相続した上杉治憲が藩政再建を目指した大倹を誓う血判誓詞2通を奉献し、同じく支藩米沢新田藩の上杉勝承及び米沢藩の江戸家老である色部照長も一通ずつ同様の誓詞を奉献。明治5年に社格が御社となりますが、大正6年の米沢大火により社殿焼失し、現在の社殿は大正13年に再建したもの。昭和2年に社格を県社に昇格。なお、江戸時代には別当寺を有しており、「享保十年城下絵図」には神社南側に「明神別当大行院」が見えます。文化8年(1811)の絵図では同地は「宝珠寺」となっています。なお、明治の神仏分離令により別当寺と神社は分離されて別当寺のその後は不明。
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社宝として山形県最古の一千年前の鬼瓦2面(小野良春による社殿再建時のものと推定)、上杉鷹山の2通の倹約誓詞、吉良義周奉納(元禄6年)の白子大明神扁額1面などが保存されています。
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拝殿。
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向拝。
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本殿。
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青面金剛・庚申塔など。
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石灯篭一対(大正14年4月・山形市三日町・松田駒藏)。
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鷹山公誓詞碑…『連年國家衰微民人相泥候因大儉相行中興仕度祈願仕候決断若於相怠忽可蒙神罸者也明和四丁亥年九月六日藤治憲敬白(花押)』説明碑文…『上杉治憲法公(鷹山)が17歳で9代藩主になられた当時(明和4年、1767)の米沢藩は、多額の借財と民心の離反によって衰退極まりなかった。公は藩の建て直しに当って藩主の日常経費1500両を209両に削り、奥女中50人を9人に減じ、一汁一菜、木綿の衣服による生活によって自ら範を示された。公は倹約令(大儉)を布くにあたって、ひそかに江戸より使を遣わし自らしたためた誓詞を歴代藩主の崇敬した白子神社に奉献し、その決意を表わされた。かく健全なる財政をはかる一方、殖産に力をそそぎ、また教育の振展に力め見事に藩の再建を果され、中興の英主とたたえられている。誓詞…「連年国家衰微し民人相なずみ候 因って大儉を相行い中興仕りたく祈願仕り候 決断若し相怠るに於ては忽ち神罸を蒙る可き者也」明和四丁亥年九月六日藤治憲』
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手水舎。
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水分大神碑。
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参道末社。
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狛犬一対(大正14年7月8日・海軍中将千阪智次郎)。
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拝殿前石灯篭一対。
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杉壹百本献木碑(米澤商友組合)。
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社殿横に弁財天(白子・市杵島姫)。
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白子神社…『火産霊大神、埴山姫大神、大宣都姫大神の三神を祀る。和銅5年(712)の創建と伝える。白子とは、この地に蚕が生じ桑林は繭で雪が降ったように白くなった瑞祥に由来する。承平2年(932)に出羽国司小野良春が社殿を再建、この時のものという古い鬼瓦(市指定文化財)を伝える。以後、米沢の鎮守として歴代領主の崇敬も篤く、社殿の造営・社領の寄進など保護を受けた。元禄8年(1695)に吉良義周(上杉綱憲二男・吉良上野介養子)が納めた「白子大明神」の扁額、明和4年(1767)に藩主となった上杉鷹山が大倹約と藩の中興を誓って納めた誓詞(2通)も、市の文化財に指定されている。米沢市』
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