
三戸郡階上町道仏。道仏館跡・旧西光寺跡。西光寺は道仏の北西、国道45号の北側に位置。海中山と号し浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛保4年(1744)の諸寺院寺号山号帳に「一盛岡大泉寺末寺道仏村 海中山西光寺」とあります。寺伝によれば文安元年(1444)道仏城主赤松民部介義成の命により開創され、開山は孝寛。当初は道仏城の堀西に建立されましたが、弘治2年(1556)中興開山の門栄により道仏村南西の道仏川左岸の地に移転。明治初年の新撰陸奥国誌は開山の孝寛を文永元年(1264)の没としますが不詳。昭和52年(1977)現在地へ移転。

庚申供養塔(寛政11年)。

西光寺旧本堂跡は墓所になっています。


標柱がありました。

オーブがやばい?!…そこそこカメラの機構を理解しております…はい。

西光寺旧本堂跡標柱の裏面碑文…『海中山西光寺は文安元年道仏舘堀西に創建され弘治2年当地へ移築。爾来420年を経て昭和52年大蛇長根へ移転す。』

奥の道へ進みます。

堀や土塁が残る館跡。


階段がありました。

果たして階段の上には何があるのか!?

はい、普通に館神社境内に着きます。

境内というよりは館跡ですね。


道仏館跡…『この館は、階上町道仏字館地内にあって、別に蝦夷館ともいわれますが、通称館と呼ばれています。館は西からのびる段丘の先端部を人工的に堀、土塁で切り、また道仏川が南側を西から北東に向かって流れていますが、これを堀代わりとするなど、自然の地形を巧みに利用し構築されています。館の形態は隅丸方形の単郭式で、規模は東西約97メートル、南北120メートルで館の西側が高く、東西幅50メートル程は平坦で、現在館神社があり、その東側は徐々に傾斜し低くなっています。館の構造は、守りの要である虎口(出入口)が現在鳥居のある東北端の堀底道にあり、堀を通路として内部に入るようになっています。堀は全て空堀、北側から西側にかけて3~4本、土塁も同数みられ、東側と南側では、堀、土塁とも2本ずつ認められ、堀幅は平均しておよそ13メートルです。館がいつ築かれたかは不明ですが、伝承によると、館主である赤松民部吉時が天正19年(1591)九戸政実の乱に南部信直に味方したため、九戸方の久慈備前、櫛引清長らに攻められ落城したといわれます。館の形態、構造などこの地方にみられる中世城館の特色をよく遺しており、保存状態もよく文化財として貴重です。平成2年11月階上町教育委員会』※赤松民部吉時の妻は九戸政実の妹。赤松民部吉時は討死。

青森県文化財調査報告書「青森県の中世城館」より。

この地図を見ると私は本来の参道とは別の道から来たみたいです(赤線)。緑線が西光寺跡。青線が途中の階段。

そういえば最初の案内看板には両部鳥居の写真がありました。それがこの地図の北にある一の鳥居(黄)だと思います。

つまりこっちが本来の参道でしょうね。神社正面に出ますし。

社殿の周囲には巨木。


伐採されたものもあるようです。


モミの木。

モミの木は樹齢400年で県内最大級。幹周合計6.10m。樹高28.00m。



少し休憩。

参道鳥居。

現代版手水舎。

旧手水石。

昭和16年旧5月15日。発起人:杉澤由太郎。氏子総代:木村由太郎。「名字じゃなく名前が一緒かいっ!」って心の中で突っ込みました。

不明の石。

壊れている石碑。案内板も読み取れず。上部には梵字、中央には出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)。

石燈籠一対(昭和16年)。



狛犬一対(昭和16年)。




獅子燈籠手洗石寄附記念碑(昭和16年旧5月15日)。

館神社は八幡神を祀っており、御祭神は誉田別尊。祭日は旧5月15日。元亀3年(1572)8月の勧請。※文安5年(1448)4月15日赤松民部助義信草創とも。

往古の舘跡に鎮座していますが、其の麓にある西光寺の創建せられたる文安6年(1449)、もしくは文安年中(1444-1449)、既に八幡社があったことは当時の過去帳によって明らかです。現在の社殿は天保14年6月20日に再建したものを昭和に入り、更に再建したものです。神社の周囲は堀や土塁に囲まれています。

その他資料より一部抜粋…『道仏の西方、道仏川中流左岸の河岸段丘上に館神社が鎮座している。この一帯は「道仏館」の館跡であり、「南部三館軍記」や「三ツ星風雲記」によると、館主である赤松民部吉時(良時)が天正19年の九戸政実の乱の際、南部信直に味方したため、九戸方の久慈備前、櫛引清長らに攻められ、吉時は戦死し、館は落城したという。天正19年3月15日、赤松吉時はこの時41歳。10歳の一子亀田丸は落城の際に逃れて根城南部政栄の元で育てられたとか、正部家氏や鳥屋部氏に託されたとか、父母の供養のため諸国を行脚して、長男は海中山西光寺の住職となり、二男は館神社の神官として代々後を継ぎ、屋号を「禰宜」と呼んで道仏神楽を伝承したという。九戸の乱でたびたび攻め込まれるほど道仏館は九戸方にとって脅威の城館であった。館は西からのびる段丘の先端部を堀や土塁で構築し、また、道仏川が南側を西から北東に向かって流れ、濠がわりにするなど自然の地形を巧みに利用した天然の要塞であった。その規模は東西約97メートル、南北120メートルの館で、西側が高く、東に行くに従い徐々に低くなり、西端の高地に館神社が鎮座するという隅丸方形の単郭式居館であった。現在、一ノ鳥居が立つ北東端が守りの要である虎口になっており、神社への参道が空堀の役割を果たしている。館神社は、その道仏館の館神(守護神)として八幡様(誉田別命)を祀り、西光寺は赤松氏の菩提寺として勧請された。野田健次郎は館神社を元亀三年八月の勧請と紹介しているが、社伝では文安六年四月十五日、赤松民部助義信の草創と伝える。社殿は昭和56年7月16日に再建されており、拝殿は間口四間、奥行き三間、幣殿が二間に一間、本殿が一間四方で構成されている。本殿には、天保十四年六月廿日(再建八幡堂一宇大守公御武運長久五穀成就祈處)と明治四年三月十九日の棟札がそれぞれ納められている。天保十四年の再建棟札には「八幡堂」とあり、明治初年の新撰陸奥国誌にも「八幡宮」と記されているが、明治の神仏分離のころから「館神社」と呼ばれるようになったと思われる。本殿の御神鏡の奥に高さ30センチと23センチの木彫神像が二体、御神体として納められている。ところが、焼け焦げ、しかも向かって左側の小さめの神像は右半身が割れており、その原形をとどめていない。棟札から右側が八幡神で左側が月読神と思われる。館神社は、武神・軍神として信仰され、出征する際は、必ず参拝に来たものだったが、今日では、旧暦5月15日を御縁日と定め、その日だけは各戸の代表者が参詣するようにしている。』


拝殿向拝。

向拝下神額。

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