
『榴岡天満宮 ~ 其之弐』からの続き。いきなり石碑スタートです笑

『「我が耳の日々に新しほととぎす」東橘』

『「寂しさは生れつきなり松の花」百非「木の葉火ぺらぺら過る月日かな」巣居「ふるるものみな輝きぬけふの月」心阿・嘉永4年(1851)辛亥仲秋・蘭庭夢庵社中建立』

『「暮るともみちは苦はなし月と花」梅月庵喜鳥「いますこしすこしとぬれつ花の雨」惟草庵■(ケツ)岱・天保14年(1843)癸卯春3月建立』

『「我こころわれにもとらず花の中」松洞宗古「わかれても心は花にとまりけり」月下庵梅雲』

『「羨めど崩れて見せる牡丹かな」雲裡翁・宝暦13年(1763)冬至庵止鳥庵連中建立』

芭蕉50回忌蓮二(支孝)13回忌追善碑…『「あかあかと日はつれなくも秋の風」芭蕉翁「十三夜の月見やそらにかへり花」蓮二翁・寛保3癸亥歳(1743)2月7日建立。雲裡坊門人等詩焉』(仙台市指定有形文化財・昭和52年3月1日)

『「盃をさして折せぬさくら哉」七十三翁・不毛土庵杉芽』

『「梅ちりてはてなき水の月夜かな」松洞馬年・嘉永4年(1851)辛亥歳5月25日宗古建 菊庵書』

『「雲に入る鳥はものかは春こころ」狸々庵月哉・嘉永2巴酉年(1849)4月2日建立』

『「残しをくも世にはづかしき塵つかのちりのたぐひにつもることのは」金成藤原徳直・御歌所再昌院法印北村季文直弟 嘉永3年(1850)8月13日』

その隣の「名月や…」から始まる句碑は案内板なし&破損しているためスルー。

こちらもスルー。

『「輿のとも明久や行けむほととぎす」東居・天保11年(1840)中夏吉国呉山人芝蘭七十二叟書』

山神碑(小牛田・嘉永7年3月13日・二日町女講中)。

おみくじ掛け所と交通安全祈願者専用修祓所。

その横にも石碑や石灯篭など…

『「細くとも流れぬはなし春の水」舎用』

『「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ 」昭和37年3月吉日・太宰府天満宮宮司菅原信貞敬書』

菅公御遺訓碑。

字体が達筆過ぎるためスルー。菅丞相御遺訓状っぽい。

筆塚(宮城県知事山本壮一郎書)。

更に筆塚2基。1つの神社でこんなに多くの筆塚を見たことないかも。


手水舎。

撫で牛。


天神さまと撫で牛…『御祭神菅原道真公は、承和12年(845年)に誕生されましたが、この年は乙丑(きのとうし)でありました。また、延喜3年にお亡くなりになりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、その場所を墓所と定め、その場所が都府楼(太宰府の庁舎)の北東(丑寅)の方であったなど多くの牛との関わりや伝承があり、天神さまには牛がつきものとなり、「神使(神のみつかわしめ)としてのつながりを持つようになり、撫で牛は御祭神とご参拝の方々を繋ぐ大切な役割を果たしています。』

唐門。

案内板「政宗が育んだ伊達な文化」より…『【つゝじが岡及び天神の御社】「つゝじが岡」の一画に位置し、「天神の御社」と「おくのほそ道」に記された榴岡天満宮の境内には、寛文7年(1667年)建立の唐門、樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラ・シラカシの老樹など、松尾芭蕉が訪れた頃をしのばせる景物が残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てられた数多の句碑もあります。平成27年3月に国の名勝「おくのほそ道の風景地つゝじが岡及び天神の御社」に指定されました。【平成28年度日本遺産認定政宗が育んだ伊達な文化】仙台藩を築いた伊達政宗については、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。そして、その文化は政宗だけに留まらず、時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成されていきました。』

榴ケ岡花見図屏風(元禄-享保の頃の榴ヶ岡の花見の様子を描いた屏風で、左下に天満宮が見える。仙台市博物館蔵)。

唐門前狛犬一対。


嘉永5年2月吉日建立(石工辻本屋七郎兵衛)。




唐門外から社殿。

社殿前から唐門。

あらためまして…榴岡天満宮は寛文7年7月25日建立。御祭神は菅原道真公(天満大自在天神)。御神徳は合格進学・学業成就・文武両道・家内安全・商売繁盛・交通安全・学童通学安全。

仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現京都府)に創建。その後、平将春が陸奥国宇多郡(現福島県)に勧請し、その後宮城県柴田郡川内村に御遷座。天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台東照宮の地)に3度目の御遷座。後に伊達政宗公が仙台城を造営する際、当宮の社木を用財として切り取ったため、その報賽に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営。慶安3年(1650)徳川幕府の命により仙台東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座。

寛文7年(1667)7月25日、3代藩主綱宗公の意思により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆が奉納され、現在地(現榴岡公園西側)に御遷座され、榴岡天満宮とし、杜の都の天神さまとして現在も広く崇敬されています。

御社殿は総欅造りで照星閣とも呼ばれ、明治9年(1876)の明治天皇御巡幸の際に御参拝された御宮。また、仙台城構築の際に有力な築城の候補地とされ、元禄2年(1689)5月7日には当宮に松尾芭蕉が参拝しており「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拝て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも当時の天神信仰が盛んであったことを示しています。寛政7年(1795)2月25日に落雷による不慮の火災が発生し、本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居と多くの歴史的建造物を悉く焼失するも、道真公が高天原より降神なされたのではないかという歴史的ロマンが語られる唯一の天満宮。

なお、現在の御社殿はその頃の再建。平成23年3月11日に発災した東日本大震災により被災し、御社殿の損傷が激しかったため修復工事を行っています。2年半以上もの歳月をかけて修復工事が完了し、平成25年11月24日に本殿遷座祭を斎行し、仮鎮座されていた御神体を本殿に御遷座。平成27年3月10日、芭蕉が訪れた当時の趣を残していることから「つゝじが岡及び天神の御社」として、境内と榴岡公園の一部31115.76㎡が国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定。平成28年4月25日「政宗が育んだ伊達な文化」の一つとして文化庁が認定する日本遺産に登録。平成29年7月25日に榴ヶ岡の地に御遷座なされて350年を迎えました。

拝殿前灯篭一対。


拝殿前「優の丑」。

優の丑…『この御使者は親子団欒で幸福を授ける撫で丑です。ご自身とご家族の生れた月に触れ優の丑を撫でて、無事合格・英才開花・親子安全・子孫繁栄をご祈念ください。』

拝殿前「勇の丑」。

勇の丑…『この御使者は勇猛果敢な邪気を祓う撫で丑です。丑の周りにあるご自身の干支の文字に触れ勇の丑を撫でて、合格必勝・学業上達・連戦連勝・成績向上をご祈念ください。』

社殿前のしだれざくら(樹齢約310年・仙台市制施行88周年記念名木古木88選・昭和52年指定)。

社務所。

境内のシラカシ(樹齢約300年・保存樹木・平成11年指定)。

神輿庫。

神輿。

以上、石碑・記念碑だらけの雨の榴岡天満宮でした。

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