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清藤氏書院庭園(盛秀園)へ。
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清藤家本邸庭園・清藤氏書院庭園・盛秀園…『一.史跡名勝国指定文化財(文部省告示第140号)。一.様式:平庭式、枯山水、観賞式。一.面積:593㎡(約180坪)。清藤家本邸庭園は、書院の南面にある平庭枯山水である。東南隅に滝石組があり、枯池の岸は低く平らな石組をめぐらす。西方に蹲踞があり、飛石を配し、奥塀際に大石を点在させる。江戸時代末期の作庭と考えられ、津軽地方に伝承される所謂武学流の形式になる作庭の初期に属するものとして貴重である(2(1)指定理由(イ)説明)。清藤家第24代盛美は下屋敷(現名称盛美園)を明治末期に作庭し、第25代辨吉は大正6年金蒔絵壁画清藤家位牌堂(下絵渡辺香涯蒔絵河面冬山現在御宝殿または大日如耒堂とも称している)を造営した。清藤家はこの位牌堂を初代盛秀建治元年12月没以耒約700年の、代代の祖先と語り合う心のよりどころとして第27代盛正へと続いている。この清藤家本邸庭園「清藤氏書院庭園」盛秀園の特色が、剛健壮麗な枯滝を主景として、約180坪庭園の全景に配慮する。多様な、力強い石組の造形によって、平和な、大自然の、偉大な風格の世界が、花鳥、晴雨、風月季節季節の折折に、尽きぬ趣を人びとに語りかける。平成3年6月10日』
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名勝庭園国指定清藤氏書院庭園…『一.名勝庭園指定(文部省告示第140号指定・名称「清藤氏書院庭園」)。一.様式:平庭式、枯山水、観賞式。一.面積:593㎡(約180坪)。清藤家本邸庭園は、寛永年代に、配流の花山院忠長卿が清藤家に耒留(忠長卿筆猿賀山縁起清藤家保存)の折に初まり、その完成は、元禄年代における、野元道玄であると伝えられてきている(名勝国指定申請書)。本庭園は、津軽地方に伝承される、所謂武学流の形式に成る作庭の、初期のものとして考えられる、貴重な庭園である(名勝国指定説明文)。本庭第一の主景は、枯滝石組である。一見して、迫力と雄大感がある構成であり、非常に大きな、広がりを見せている(東京日本庭園研究会会長吉河功)。この庭園を南面に眺める、清藤家(現在も居住本宅)本邸を、清藤家第24代盛美は明治6年に新築し、明治末には、同一邸内北側に、下屋敷(現名称盛美園)を別宅隠居用として作庭した。また、第25代辨吉は、金蒔絵壁画清藤家位牌堂(現在御宝殿または大日如耒堂とも称している)を大正6年に造営した。庭園の造形美について、代表的な武学流八庭園の総合的なアンケート(平成元年「庭研」第263号記事)に、清藤家本邸庭園は第1位に、第2位山内邸庭園、第3位瑞楽園庭園、第4位清藤家盛美園庭園、第5位鳴海久兵衛邸庭園、(他省略)、と評価された。清藤家本邸庭園は、文化財保護法第69条によって、昭和54年8月7日付名勝庭園国指定になっている名園である。平成元年8月7日』
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御宝殿について…『清藤家別宅北庭を御覧になるかたで、清藤家位牌堂としての、大日如来座像、蒔絵、など諸美術品を見学なさりたいかたは、別宅北庭西南側から入った所にありますので、同受付にお話しください。昭和60年7月9日管理清藤家・所有清藤功』
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盛秀園…
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本日閉園…。
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ってことで盛美園へ。海外ツアー客もたくさんいました。最近の外国人は下手な日本人より日本の文化や伝統に詳しいので侮れません。
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何度も来ております…はい。
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園内マップ。
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盛美園の見どころ。
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清藤家の歴史…『(鎌倉時代)初代清藤次郎盛秀 建治3年(1275)没。盛秀は、鎌倉幕府5代目の執権北条時頼の家臣であった。ときに時頼の寵姫唐糸御前は、女性達の嫉視反感に耐えかねて鎌倉を去る事になった。時頼は、唐糸御前を盛秀に託し再会を約した。一行は海路十三湊に着き名野岡村(今の南津軽郡藤崎町)に居を定めた。しかし唐糸御前は時頼行脚の風聞に接し、池に身を投じて自殺した。盛秀は主命を果たせなかった責任を感じて鎌倉に帰らず猿賀の地に永住した。(室町時代)清藤家は、歴代農業(地主)を営みながら他方では広い地域に亘って商業を営んでいた。当家には往時を偲ばせる「そろばん」がある。その箱書に「天文十一年壬寅三月調之清藤」とあり、日本最古のそろばんといわれている。(戦国時代)11代清左衛門 天正13年(1585)没。清左衛門は、かねてより田舎館城主千徳掃部政武と親交があった。津軽為信が田舎館城を攻めた時、清左衛門は和睦の使者に立ったが千徳政武は武士道の義に殉じ245人全員が玉砕した。城主の妻お市の方は18歳、一子を抱えて隠れ忍んできたが遂に見付け出された。やがて津軽為信が統一事業を終えた後、敵味方合同の慰霊祭を営んだ時にお市の方は祭壇の前に進み焼香を終えた後、その場で自刃して果てた。当家では、その心情を哀れみ千徳政武・お市の方の菩薩を弔ったと伝えられている。(江戸時代)20代庄兵衛 天保2年(1831)没。清藤家は当時大庄屋を勤めていたが、7年間に及んだ大飢饉で餓死する者が続出し惨状を極めた。それを見かねて当家では蔵を開き米を施して村民の窮状を救ったという。その後も勤労を奨め、土地を開墾し飢餓に備えて米を貯えるなど、率先して事に当たり豊かな村を築いた。(明治時代)24代盛美 大正3年(1914)没。明治維新に際し、士族授産のため田地十町歩(10ヘクタール)を残して没収された。盛美は、農業(地主)を本業にしていたが、他方で政治的にも経済的にも活動していた。戸長や村長を勤める傍ら青森商業銀行・尾上銀行創立に参画し、やがて尾上銀行頭取になった。その一方では「盛美園」を造営した。明治三35年武学流の小幡亭樹宗匠を招き、9年の歳月を費やして明治44年に完成した。庭園は3,600坪で、その一隅に鹿鳴館時代を彷彿とさせる和洋折衷様式の「盛美館」を建てた。(大正時代)25代辨吉 昭和15年(1940)没。清藤家の霊廟でもある御宝殿を大正6年に造営する。本尊に鎌倉時代の彫刻金剛界大日如来像を祀っている。(昭和時代)26代盛治 昭和59年(1984)没。昭和20年終戦、農地解放政策により大きな影響を受ける。昭和28年、盛美園が国の名勝として指定を受ける。(平成時代)現代。現在ではその子孫が盛美園を引き継いでいる。』
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国指定名勝盛美園(武学流)…『盛美園は、明治時代の作庭中、最も代表的な庭園といわれ、武学流の眞髄を示したものとして知られている。武学流は、江戸時代の始め頃、都落ちしてきた公卿が仏教文化に古神道文化を取り入れて作ったことが始まりといわれ、明治時代には津軽地方で盛んに作られるようになった。盛美園は、清藤家24代盛美が、小幡亭樹宗匠を招き、明治35年より9年間を費やして完成したものである。庭園の面積は、3,600坪(1.2ヘクタール)で、池を中心に真・行・草の三部からなりたっている。庭園の中央には、水を入れない枯池と水を入れた池泉の2段に作り、池泉には蓬莱の松を配した鶴亀島がある。正面の築山は仏教思想をあらわした「真の庭」で、庭木を整然と配しその左側には石を祭壇風に組み立てた枯滝がある。中央の谷間を隔てた右側の築山は神道思想を現した行の庭で、大石を組み立てて深山幽谷の境地をつくり、更に滝から水を落として景観に趣を添えている。盛美館の右側は「草の平庭」で、3つ並んだいちい(おんこ)の大刈込みは造化の三神を象ったものである。なお、盛美館は、和洋折衷の珍しい様式で庭園と融和した美しさを保ち、明治文化の名残りを今に伝えている。盛美園は、築山と池を主景に建物を添景とし、更に津軽平野と梵珠山を借景にとり入れて調和のある美しさを形づくっている。』
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何度も見ていますが、ちょうど御宝殿拝観時刻だったので向かいました。拝観時刻といっても30分毎に見れますけど。「30分ごとに1回約3分間のペースで公開」としていますが、少なくとも私が過去に訪れている時は常に公開はしており、「30分ごとに1回約3分間の説明アナウンスが流れます」といった感じでした。たまたまかも知れませんが。
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ちなみに…
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写真はパンフレットより。見応えあります。御宝殿は清藤家の位牌銅であり、25代辨吉により大正6年(1917)に造営。2代将軍徳川秀忠公の御霊廟をモデルにしたものです。堂内は金箔に覆われています。御宮殿は重層入母屋造り唐破風の廟建築の様式で、内陣には鎌倉幕府執権北条時頼の側室唐糸御前を祀り、御本尊には鎌倉時代の彫刻金剛界大日如来を安置。両側の蒔絵は河面冬山が生涯をかけてつくった大作であり大正初期に完成。時絵は3部5枚からなり豪華絢爛を極めています。さくらに孔雀の蒔絵は日本最大のもので漆芸の最高峰。
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盛美館。
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盛美館は庭園を眺めるために建てた和洋折衷洋式の建物。和洋と洋風、判然と異なった様式が上下に重なる建物は珍しく、国内では他に例がないといわれています。堀江佐吉の下で洋風建築の腕も磨いたといわれる建築家西谷市助によって明治42年(1909)に建立。1階は純和風の数奇屋造りで、贅を凝らした書院からの眺める景観が素晴らしいものとなっています。2階はルネッサンス調を漂わせており、漆喰の白壁に展望室のドーム屋根、尖塔、棟飾りなどが見事です。現在2階は一般公開しておりません。
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盛美園。池泉枯山水廻遊式。国の名勝に指定(昭和28年3月31日・平成14年12月19日追加指定)。一番手前には礼拝石・飛び石があり、礼拝石は神に供物を捧げる役石で、節理の見事な玄武石。飛び石は沓脱石からY字形に打たれ、手水前と礼拝石に至ります。
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武学流の神髄を示したものといわれ、我が国における明治時代三名園の一つに数えられています。清藤家24代盛美が小幡亭樹宗匠を招き、明治35年より9ヶ年を費やしてつくったもので、その広さは3600坪(1.2ヘクタール)あります。
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庭園のつくりは、池を中心に「真」「行」「草」の三部からできています。庭園の中央は池泉と枯池の二段とし、池泉には神仙島を浮かべその上に逢菜の松を植えています。「真」を表す築山、「行」を示す築山をつくり、松・かえで・つつじ等を添えて趣きを豊かにしています。「草」は平庭になっていて、天地創造の神々を司ったイチイの大刈込みが見事です。洋館から一望しますと中央は開いて津軽の田園と遠くの山々を借景にした遠大な景観を眺めることが出来ます。
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枯池と池泉。枯池の白砂は池をあらわし、左岸は昇龍、右岸は降龍を設け中央には7個の石をもって七福神を形づくっています。白砂の枯池は盛美園全体の清浄さと荘厳さをあらわします。また池泉では、樹木の下になって一部の池岩石が隠れていますが、護岸の石組が見事です。
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蓬莱島(神仙島)と鶴を象徴する蓬莱の松(赤松)。
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真の築山。
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枯滝・遠山石。枯滝は桃山時代風の石組みで、巨石をやや前傾姿勢に据え、迫力と豪華さを強調しています。
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四阿。
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小幡亭樹宗匠を刻んだ石碑。裏面には昭和35年の紀年銘。この石碑には今まで気づきませんでした。
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猿田彦大神の鳥居(園外です。関連記事「弥生遺跡小田ノ森・小田崎・七坊跡・五ツ盛(平川市・猿賀神社)」を参照)。
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真の築山から見た蓬莱島・行の築山など。
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行の築山。
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滝石組み。
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滝。
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上から見た滝石組み。
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蓬莱島の石灯篭。
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蓬莱島(神仙島)…『万里の長城を築き、春秋戦国時代を統一し、初代の皇帝となった秦の始皇帝が信仰した神仙思想による。亀を象った島に、鶴を象徴する赤松を配している。不老長生を意味し、庭園の象徴的な存在である。』
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庭から見た盛美館。風がなければもっと綺麗に池に映るはず。
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行の築山にある盛美神社へ。
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盛美神社鳥居。
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手水石。
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行の築山に登ります。
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五重塔や石灯篭があります。
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立派な五重塔。
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波兎文様(竹生島文様)。竹生島という謡曲(能)「緑樹影沈んで魚木に登る気色あり 月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」に由来。因幡の白兎説もあり。
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盛美神社。主祭神倉稲魂神。配祀として大山祇神・田道命・庭津日神・庭高津日神。言い伝えによりますと、鎌倉時代に津軽藤崎の郷鶉ケ池の畔に祀っていた倉稲魂神(稲荷様)を、猿賀村の清藤家の祖先が庭先の欅樹の傍に祀ったことにはじまるといい、後に猿賀神社の境内社であった一王子神社の御祭神である大山祇神を合祀、更に猿賀神社の御祭神上毛野君田道命も奉斎して神威彌々加わり霊験があらたかになったと伝えます。明治時代に清藤家24代祖盛美が感じるところあり、邸内庭園の一部を浄めて奉遷し、更に庭津日神、庭高津日神を配祀して小祠を建立しました。周囲の林相と相まって幽玄閑寂の境地をつくっています。
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意外に歴史深い由緒がありました。更に稲荷の由緒を追究すべく、藤崎の郷鶉ケ池について調べたところ…確かに天文年間の津軽郡中名字に奥法郡藤崎郷の内として「鶉別所」というそれらしい地名はありましたが詳細は不明。そこまでちゃんと調べていませんが、鶉ケ池は現存していなそうですね。藤崎町は坂上田村麻呂の藤の鞭に由来する地名(藤咲)であり、後に藤先・藤崎村となりましたが、それ以前は鹿島神社の北の沼州川にちなんで沼州(沼洲村)と称しており、昔は沼や池などがあり、辺りは深い林であったといいます。
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神額。
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賽銭が綺麗に並べられていました。
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ケヤキ。
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ケヤキの巨木…『樹齢400年と云われ、豪族時代の庭園の名残と伝えられている。他に600年の欅は戦時中に供木として伐られた。』
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のんびり庭園散策。
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以下、以前の記事及び関連記事。
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