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東京都港区芝大門。
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東京タワーを背景にそびえる高さ約12.5mの大鳥居。
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社号標(神宮大宮司二條弼基書)。ちなみに参道入口にも同じ社号標があります。
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御神燈一対(御大禮記念の為修復・大正5年11月)。
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芝大神宮の文化財…『社伝によれば平安時代の中頃(寛弘2年・1005年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。毎年9月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深い。所蔵する文化財として、絵画では江戸末期の建部巣兆の箱根詣図(紙本着色)などがある。古文書では建武4年(1337)正月7日の足利直義御教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正16年(1588)7月24日の吉良氏朱印状がある。昭和53年1月(平成25年11月建替)港区教育委員会』
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建部巣兆の箱根詣図は非公開。建部巣兆(宝暦11年-文化11年)は江戸時代中後期の俳人、絵師。
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提灯一対。
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そうだ!帰りは更科布屋で一杯やっていこう!調べたら9月(参拝時)の変わり蕎麦が生姜切りそば!
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石段手前、両脇に色々あります。
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石灯籠。
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御神木。
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生姜塚。
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毎年9月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られています。別名生姜市・生姜まつり。
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芝大神宮御社号標石碑建立奉納者芳名碑。
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芝大神宮祈祷殿。
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不明の石。
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貯金と災厄(昭和丗二年正月不動会建之)…『災厄は忘れた頃来るという。関東の大震災も亦然り。當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支拂猶豫令を布いた。然るに其中にあってひとり預金の金額拂戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある。其名を不動貯金銀行という。即ち牧野元次郎翁が頭取であった。其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄桿破片二個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である。「倉は焼けても貯金は焼けぬ」』
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貯金塚。「根氣根氣何事も根氣 實篤」(昭和31年9月・牧野司郎謹寫)。
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裏参道。
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裏から見た芝大神宮本殿。
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表側に戻りまして正面石段。
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石段から見た大鳥居と参道。
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芝大神宮は寛弘2年9月16日創建。平成17年9月16日で御鎮座一千年。主祭神は天照皇大御神・豊受大御神。相殿として源頼朝公・徳川家康公を祀ります。一時期准勅祭社とされた東京十社の1社で旧社格は府社。
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元々は「神明」あるいは「神明宮」と称していましたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから「飯倉神明(飯倉神明宮)」、更に芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至りました。また別に伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い「関東のお伊勢様」とも尊称されました。明治維新にあたり、政府の教部省、太政官正院並びに東京府の許可のもと、明治5年8月30日より「芝大神宮」を称しています。
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武蔵国に置かれた伊勢神宮の御厨である「飯倉御厨」に創祀された神明社に起源を持つとされ、当初は飯倉山(現港区芝公園)に鎮座。社伝によりますと、一条天皇の御代、寛弘2年9月16日、伊勢の内外両宮を勧請して創建し、日向国鵜戸郡から得た鵜戸石と剣を神宝として奉納したといい、源頼朝は元暦元年(1185年)と建久4年(1193年)の2度に亘り神領を寄進し、特に後者においては自ら社参の上1300余貫の地を神田として寄進したといいます。その後中世には東国武家から厚く崇敬され、建武4年1月7日、足利尊氏の実弟直義が戦捷祈願に対する報賽の書状を奉納したほか、戦国時代には太田資長(道灌)の崇敬を受け、天正16年7月24日には、北条氏直による柴村に対しての制札が発布されました。また、豊臣秀吉も天正18年7月19日あたりに、奥羽平定のために江戸を進発するに際して戦捷を祈願。徳川家康も同年江戸入府に際して社参し、翌19年11月28日、武蔵国日比谷郷に社領15石を寄進。慶長3年8月、増上寺が当神社の旧鎮座地へ移転することとなったため、現在地へ奉遷し、翌々5年9月1日、徳川家康は関ヶ原出陣に際し社参して戦捷祈願。同19年から20年にかけての大坂の役では、徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として、家光の乳母である春日局が社参。以後、歴代将軍家・幕府の庇護を受け、社殿の造営・修復等は幕命により執行するとともに、幕府より種々の祈祷依頼があり、大名による参詣等諸侯からも崇敬を受けました。
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江戸時代に入って参詣者が増え、江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われるようになります。更に江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮参拝が増加しますが、高額な旅費と長期間の旅程を要するため、代わりに伊勢神宮の御祭神を祀り、江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられています。参詣者が増えたことで、参道には数々の出店が見られるようになり、茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋、角力、手妻、軽業、剣術、富籤興行、岡場所・陰間などの風俗店や、芝居などの見世物小屋で賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼んで名物となりました。更に江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋市兵衛が天明頃には当神社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていました。
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明治元年の神仏分離令により別当(建久5年開基の臨海山遍照寺金剛院)が廃され神主が首座。明治元年10月、明治天皇東幸の際、本社を内侍所として小休し、同年11月8日、准勅祭社に指定され、翌2年の長雨に際しては朝廷より止雨祈祷の依頼があるなど厚遇されるも、明治3年9月1日、准勅祭社制度の廃止に伴い東京府の府社となりました。明治9年1月4日、火災により焼失し、翌10年3月に再建。大正12年9月1日、関東大震災により倒壊延焼し、昭和2年8月に本殿等主要建造物を再建し、同13年12月に完全再建。同20年5月26日に東京大空襲により焼失し、昭和22年1月13日に本殿再建、同39年9月12日に本殿再造営が完工。このように大永年間に近村から出火し類焼したのを始めとし、近世にはしばしば大火に見舞われており、その都度再建されています。
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古くは境内外に多くの摂末社を所管していましたが、現在は全て本殿に合祀されています。ちなみに明治9年1月の火災により焼失するまでの境内社として、摂社の住吉神社(表筒男命・中筒男命・底筒男命)がありました。古くは御手洗社と称し、戦前まで境内にあった泉頭という池泉の守護神として住吉三柱神を祀り摂社としていました(明治初期に大綿津見命に御祭神が変更)。寛永10年3月、3代将軍家光が鷹狩りに出向いた時、目にゴミが入って難渋していたところ、この池泉の水で目を洗い快癒したため、家光は当神社への尊崇の念を篤くし、老朽化した社殿等の造営に着手したといいます。その他末社として春日神社(天児屋根命)、熊野神社(伊邪那美命)、須賀神社(須佐之男之命)、事代神社(事代主命)、氷川神社(健速須佐之男命)、八幡神社(応神天皇)、浅間神社(木花咲耶姫命)、市杵嶋神社(市杵島姫命)、諏訪神社(健御名方神)、天満神社(菅原大神)、淡島神社(少名彦名神)、宝禄稲荷神社(保食神)、福寿稲荷神社(和加産毘命)、稲荷社三社(宇賀魂神)、境外社として皆田稲荷、産千代稲荷、潮干稲荷、智童稲荷あり。昭和11年9月12日に改めて末社1社を再建し、全末社を合祀することとなり、大国主命、少彦名命、事代主命が祀られていたため、算賀加護の社とされましたが、これも第二次世界大戦の戦火で焼失。
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狛犬一対。
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上段の台座紀年銘は昭和6年9月、二段目台石(め組)には昭和40年9月(高麗犬修覆・台石奉納)となっていますが、資料(昔の写真)によるとこれよりも古くからあったらしく、いずれも修復の紀年銘とのこと。
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御手水舎。
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案内板より…『此の御手水舎は崇敬の念篤い氏子皆様の御芳志により今年の例大祭を期し9月11日に落成致しました。茲に謹で御礼申し上げます。様式は四本柱の外側に二本の柱が棟を支えている(之を棟持ち柱と云う)神明造りを形どったもので全国でも稀に見る珍しいものです。用材:木曽桧。水鉢:浮金黒御影本磨。屋根:銅板葺。昭和41年9月吉日芝大神宮』
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手水石。
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神明恵和合取組の碑…『江戸時代の境内には宮相撲などがかかり憩いの場として親しまれました。め組の喧嘩は芝居や講談で有名です。』
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神明恵和合取組についてはこちらの記事をご参照ください。
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百度石。
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社殿向かって左側へ。
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星野立子、椿、髙士三代句碑。立子は高浜虚子の次女。椿は立子の長女(高浜虚子・星野天知の孫)。高士は椿の息子・立子の孫(高浜虚子・星野天知の曾孫)。
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「そよりとも風はなけれど夜涼かな」立子・「千年の神燈絶えず去年今年」椿・「界隈のたらだら祭なる人出」高士。
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石灯籠。
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力石。
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芝大神宮の力石(東京都港区指定文化財・有形民俗文化財)…『力石は重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになった。芝大神宮の力石は「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応3年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。港区内には、全部で14点の力石が確認されているが、こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものである。平成7年9月26日東京都港区教育委員会。』
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