
人のいない禅林街を散歩。弘前上空がこんな感じだった日です(写真はイメージ)。見ていましたが写真は撮っていません。





黒門が見えてきました。

黒門手前右手には赤門。

赤門横には子育地蔵尊。

赤門を進むと耕春院構(下寺通り)。

黒門。

黒門を進むと西茂森長勝寺構(上寺通り)のスギ並木(保存樹林)。


栄螺堂。

あまり知られていませんが、耕春院構(下寺通り)へ抜ける細い道があります。


これが路地の目印。

写真はあまり撮っていませんが色々なお寺を巡りながら散策。


なぜか隣松寺の…

千躰地蔵尊の写真だけはしっかり撮っていました。




長勝寺にはさすがに観光客が来ていますね。


長勝寺前から禅林街。

長勝寺の隣にある禅林公園の忠霊塔へ。

忠霊塔前の桜も満開でした。

弘前城。わかるかな?

ここです。たぶん現地はとんでもない数の観光客で溢れかえっています。


長勝寺横の松前藩13代藩主松前徳広墓所跡。発掘中に1度訪れました(発掘時の記事はリンク先からどうぞ)。現在は埋め戻されて、新たに案内板が設置されていますが、案内板が遠くて見えません。

松前徳広墓所跡(国指定史跡津軽氏城跡弘前城跡長勝寺構・長勝寺境内)…『【発見された墓所跡】松前徳広墓所跡は、長勝寺境内の重要文化財建造物九棟の防災設備設置に伴い、弘前市教育委員会によって実施された発掘調査で確認されました。お墓の掘り込みは上面約4m四方で、約4mの深さがあります。中には二重の木枠(木室・木槨)が残っていました。遺骸を収めた木棺は発見されませんでしたが、ほかの大名墓の類例から、木室・木槨・木棺の三重構造であったと推定されます。木室は最下層に胴木を二段積みとし、その上には約2.1m四方の井桁状に、角材が七段積まれていました。更に、その内部に約1.3m四方の木槨が作られており、木室との間には木炭が敷き詰められていました。また、木槨の板材の継ぎ目には水が浸み込まないように、アスファルトと思われる樹脂が塗布されていたほか、内部には酸化を防止するための石灰が敷き詰められていました。墓所跡の埋土からは改葬時に廃棄されたと思われる、木室の角材の一部や、角塔婆などが出土しています。なお、墓所跡は遺構保護のため、現在は埋め戻されています。【松前徳広と墓所跡】松前徳広は松前藩の第13代藩主です。明治元年(1868)11月の箱館戦争による旧幕府軍の攻撃を受け、居城福山城が陥落、19日に徳広は家族・重臣ともに津軽海峡を渡り、弘前藩の庇護を受けます。しかし、もともと病弱だったこともあり、29日には弘前の薬王院で病死し、長勝寺境内に仮埋葬されました。その後、明治3年(1870)9月に明治政府軍が松前藩領を回復したため、徳広の遺骸は松前町の法幢寺に改葬されました。発見された墓所跡から埋葬者を特定する資料は見つかっていませんが、墓の規模が藩主級で、改葬されていること、また、「明治2年弘前絵図」の本地点に墓所の記載があることなどから、埋葬者は松前徳広と判断されます。【長勝寺構について】長勝寺構は慶長16年(1611)、高岡城(のちの弘前城)築城時に、南西側の守りを固める出城構として、領内33ヵ寺を集めて形作られました。現在も東端の土塁や、寺院街の地割が良好に残っていることから、昭和27年(1952)に弘前城、新寺構とともに国の史跡に指定されました。』





『木槨の内部には、櫛4本、もとゆい1束、縄2巻、和紙に包まれた剃刀1丁、和鋏1丁、砥石1丁、鉄製箸1膳、竹製箸入れ1本、髪を包んだ和紙、墨書のある和紙各1包が残されていました。これらは埋葬の儀式に使われた道具類と思われます。』

黒門(長勝寺構え・上寺通り)20ヵ寺(+1ヵ寺※普門院は別の場所に移転。蘭庭院裏墓地後方の丘陵にある通称山観。)の記事。
『金華山 泉光院』
『大浦山 海蔵寺』
『竜負山 京徳寺』
『別処山 宝積院』
『種里山 鳳松院』
『金沢山 照源寺』
『頓川山 寿昌院』
『三嶽山 清安寺』
『石神山 勝岳院』
『八重山 長徳寺』
『龍沢山 嶺松院』
『金平山 蘭庭院』
『観音山 普門院』
『新岡山 高徳院』
『赤倉山 宝泉院』
『黒長山 福寿院』
『櫻庭山 陽光院』
『唐糸山 万蔵寺』
『蟠竜山 隣松寺』
『嶺応山 梅林寺』

赤門(耕春院構え・下寺通り)12ヵ寺の記事。
『長雲山 藤先寺』
『貴峰山 月峰院』
『白応山 天津院』
『白花山 常源寺』
『梅峰山 恵林寺』
『金屋山 永泉寺』
『金竜山 盛雲院』
『薬王山 正伝寺』
『石流山 川竜院』
『萬松山 安盛寺』
『松種山 正光寺』
『耕春山 宗徳寺』

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