
宗徳寺の由緒や、石田三成次男の石田重成(杉山源吾)の墓(豊臣成範)などについては以前の記事を参照ください。


五重塔と稲荷宮(稲荷迦羅多聞陀天神堂)。


禅林街津軽三十三ヵ寺三十二番。

句碑「肩車揺らす風船人をこぐ」。詠み人読めず!

六地蔵。

手水舎。

三界萬靈塔。

立派なお墓とその前にある石灯篭一対。石灯篭には「武田累代靈前」とあります。正面に武田甚左衛門恒広の墓。

石灯篭の紀年銘は明治32年旧3月28日。


勇猛院實参道悟居士。天保2年(1831)。3月29日。

裏には「杉山上總・豊臣成務」とあります。杉山成務のお墓です。

重成から辿ると【重成-吉成-吉煕-成武-成胤-成総-成務-成充-成章-成務-成範-成知-壽之進】となります。明治以前となる2代目吉成から11代成範までの墓には「豊臣」が刻まれています。宗徳寺には杉山家2代目から14代目までの代々の墓があります。


他にも色々ありそうですね。本当に歴史を感じることができるお寺です。ちなみに昭和57年度墓確認調査報告書「弘前の墓」に図示されている主なものとして、最古墓は寛永19年のもの。二代信枚第五子津軽吉十郎信光(明暦2年)、始祖は因幡松賀城主、四代信政の幼年守役棟方作右衛門貞家(明暦3年)、三代信義の侍医で歌人の疋田甫庵(万治元年)、信義代家老の傍嶋太兵衛正玄(万治2年)、石田三成の孫杉山八兵衛吉成(寛文12年)、信枚七子で信義、信政代家老大道寺宇左衛門為久(延宝2年)、信義の子で書院大番頭の津軽平八郎為永(延宝4年)、信政の守役の一町田八郎衛門(延宝9年)、弘前藩御用番毛内有右衛門茂栄(貞享4年)、転び切支丹小泉長兵衛の弟大道寺(岩見)直秀の内室(元禄9年)、信義四子で弘前藩城代家老津軽玄蕃政朝(宝永2年)、弘前藩城代山田彦兵衛久寿(正徳5年)、6代信著の弘前藩家老の隈部伊織(寛保2年)、明治天皇行在所御用を勤めた武田家などがあります。墓石群はその殆どが兼平石で、特に寛永から寛保期までに集中して見られます。いずれ紹介できたらと思います。

覺應院殿深山歯(凵+米)松大居士(津軽信経菩提塔)。天和元年12月25日。



佐藤俊雄歌碑「八旬の 白髪かすかに もえつつぞ はにかみむかふ 紅八重桜(としを)」(佐藤俊雄生誕90年記念・平成10年8月吉日。書・雪華佐藤寿江、建立者・佐藤弘次)。佐藤俊雄氏は弘前生まれ(明治42年3月18日)で、大和沢小学校、弘中、弘高を経て昭和7年3月に東京帝国大学文学部を卒業。昭和7年4月より県立弘前中学校、県視学、弘前市学務課長、県立弘前中央高校教頭歴任。昭和41年4月県立八戸東高校校長をもって教職退任。昭和10年4月、県立弘前中学校同職の森山謙一郎氏のすすめにより短歌結社「潮音」に入社。昭和38年1月幹部同人。昭和48年7月県歌人懇話会副会長(昭和48-63年)。昭和53年8月より弘前潮音会会長。昭和57年7月より弘前市歌人連盟初代会長。昭和57年11月教育功労により勲四等瑞宝章受章。昭和60年1月宮中歌会始陪聴者。62年6月青森県歌人功労賞受賞。平成4年3月12日永眠(82歳)。正五位に叙せられています。遺族の願いにより一周忌に遺歌集「赤とんぼ」発行。ライフワークとして藤原定家の研究をされ、その資料も多くあると思われますが門外不出、自らを「定家狂」と名乗ります。母校大和沢小学校校歌を作詞。弘前高野山法光院住職の懇請に応えて境内にある水子観音像を詠んだ歌「生まざりし子ゆゑにまよふ親ごころ大悲のみ手にすがるおもひを」は佐藤中隠の筆により台座に刻まれています。

青森県更生保護事業嚆矢顕彰碑(宗徳寺28世棟方唯一師)。碑文(棟方唯一師足跡)…『明治4年9月25日、本県鶴田町宮本家に生まれる。12才の時五所川原市龍泉寺棟方玉應の弟子となり仏門に入る。曹洞宗中学林、同高等学林、大学林(現駒澤大学)と東京に遊学、卒業後宗徳寺(当寺耕春院)住職となり、その1年後大学林学監に任命されている。その後も宗務所長、宗会議員を務めるなど若くして曹洞宗宗門の重責を担ったほか、毎年寒の30日間青年僧たちを率いて托鉢を行じ、窮民に米品を施与するなど、社会救済事業を率先して行った。師は、度重なる火災に遭遇するなど疲弊していた耕春院(津軽藩祖為信が実父のため創建した)の復興を図り、明治45年、本寺である金沢宗徳寺(全国に900以上の末流をもつ古刹であるも、同じく荒廃していた)を当地に移転合併し、耕春山宗徳寺として再建、本堂・山門(鐘楼堂)・赤門などを建立した。明治31年5月30日、若干26歳で犯罪者更生のための仏教慈晃会を創設、明治45年官民一体の組織としてこれを青森県仏教慈晃会と改称、行く当てのない免囚者(多い時は十数人)を宗徳寺に収容した。同会は、その後青森県保護司会、又更生保護施設あすなろ(青森市)に発展して行った。青森県更生保護事業の嚆矢である。大正12年、火災に遭うなど存亡の危機に立たせられていた仙台の曹洞宗第二中学林の林長に就任、苦心の末これを再建、当校は後に東北福祉大学となって発展し、中興の祖として同校中庭に等身大の胸像が建立されている。同校執務の留守中に、兼務する秋田県大曲(大仙市)の大川寺を火事で焼失、ために宗徳寺を高弟黒瀧精一師に譲り再建に専心した。昭和10年大川寺復興を成就、昭和18年1月21日、当大川寺で71歳の生涯を閉じた。平成24年11月2日当山30世信行撰』…凄い方です。

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