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環七から少し入った路地沿いに鎮座します。「上馬の駒留八幡神社」としてせたがや百景に選定。境内のクロマツは世田谷区名木百選に選定。
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鎌倉時代後期にこの地の領主であった北条左近太郎入道成願の夢の中に現れた八幡様より「祀る場所は愛馬に聞け」とのお告げがあり、愛馬の留まったところに崇敬する八幡宮を造営。地名の由来もここからきているそう。程近い場所に北条左近太郎入道成願開基(分保元年・1317)の八幡山宗円寺(若宮八幡宮の別当寺)もあります。
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境内案内板より…『祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治3年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。』
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手水舎。
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狛犬一対(明治39年・戦捷記念)。
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神楽殿。
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社殿。御祭神(摂末社含む)は応神天皇、天照皇大神、市杵島姫神、倉稲魂神、菅原道真命、埴山毘売神、国常立尊、大鳥連祖神、事代主神。経塚駒留八幡宮の創建不詳。上馬引澤の鎮守。明治5年村社。明治40年駒留八幡宮に改称。明治42年三軒茶屋(旧中馬引沢村)鎮座の天祖神社と厳島神社を合祀。戦後に駒留八幡神社」に改称。昭和41年社務所、神楽殿、神輿庫等改築。昭和53年宮神輿修復。
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五色の鈴紐。
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蟇股。
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木鼻。
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社殿横にはいくつかの末社。
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厳島神社(常盤弁財天)。周囲には水が無く、また、常盤橋の遺構が残っています。
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常盤伝説(注:諸説あり)…『天文動乱の昔、南関東の覇者世田谷城主7代吉良頼康は重臣奥沢城主大平出羽守の息女常盤の方をこの上なく寵愛していたが、他の側室達の讒訴を信じてゆくりなくこれを退けんとした。常盤の方は早くもこれを察知して城を脱出したが到底逃れがたきを悟り、「君をおきて仇し心はなけれとも浮名とる川沈みはてけり」窈窕美麗たぐいなしとうたわれ鷺草にも比すべき麗人も無実を訴えたこの悲痛な辞世を残してあわれ19才の花の命を胎内の若子諸共に田の面の露と消えはてたのである。後にこれは冤罪であることが明らかとなり頼康は後悔のほぞをかみ、遂に八幡の旧地に若子を相殿として祀る。駒留八幡がこれである。』。常盤は小川に架かる橋(後の常盤橋)にて自害(又は追手により殺害されます)しましたが、妊娠8ヶ月だった常盤の胎児を駒留八幡神社に一社相殿(若宮八幡宮)として祀り、また常盤を弁財天として境内に祀ったということです。
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駒留稲荷神社。昭和始めの区画整理にて三軒茶屋の白井稲荷を合祀。
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横にある石碑には豊受稲荷大明神とありました。
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御嶽社・榛名社・三峯社・菅原社。
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左が榛名社・三峯社・菅原社。
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右が御嶽社。
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女塚社。
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女塚社の横にある石祠には釣竿を失った恵比寿様。
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青面金剛(紀年銘は天和癸亥年十月廿二日)。総高70cm。
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宗円寺開基碑。総高103cm、水鉢付です。紀年銘なし。区画整理の際に現在の場所に移されたものです。
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表忠碑。
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戦没者慰霊殿。
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駒留八幡神社氏子区域内出身殉国軍人慰霊俗氏名。
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