
新寺町をブラブラして弘高前へ。ちなみに弘前では「ひろこう」といえば弘前高校です。校歌でも「ひろこう」と歌詞に出てきますし、弘高ねぷた(ひろこうねぷた)と言いますし、弘高下(ひろこうした)駅もあります。ところが弘前工業高校ができてからは紛らわしくなったため、「ひろたか」とも呼ばれるようになります(津軽弁なら「ひろたが」)。更に略されて「たか」(津軽弁なら「たが」)と呼ばれるようにもなったそうです。「たが」だけで通じてしまう津軽弁ってやっぱり凄いですね。ちなみに私の周囲では普通に弘前高校は「ひろこう」、弘前工業は「こうぎょう」と言う人が圧倒的に多いです。個人的に一番違和感があるのはやっぱり津軽中学校の「がるちゅ」(※普通に「つちゅう」と略す人もいます)と、弘前東高校の「でんぱ」(旧名)ですね。というどうでもいい話からスタートです。
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以前はこんな案内板なかったような。

旧青森県尋常中学校(青森県立弘前高等学校鏡ヶ丘記念館)…『明治26年(1893)、青森県尋常中学校の校舎として建築を始め、翌年1月11日に落成しました。工事を請負ったのは川元重次郎(川元組)です。昭和33年(1958)新校舎建設の際に、同窓生等の要望により本館の主要部を残すことになり、現在地に移され「鏡ヶ丘記念館」と名付けられたものです。東北地方で明治時代の旧制中学校の校舎が残されているのは、福島県郡山市の「福島県尋常中学校本館」(国指定重要文化財)とこの建物だけであり、平成5年7月19日青森県立学校最古の木造校舎として、発見された棟札とともに県重宝に指定されました。』

弘前高校の生徒に欠かすことのできない成政(なりまさ)。

袋宮寺。十一面観世音菩薩像(丈六)はもっと有名になってもいいくらい見応えあり!

しかないせんべいに寄り道しつつ…

久々に稲荷神社参拝へ。

そういえばここの鳥居は数えたことがなかったですね。高山稲荷神社は数えたのに。


鎮守の森整備事業(所在:弘前市大字新寺町33)。

鎮守の森境内案内図があるのを初めて知りました。

由緒等は以前の記事を参照してください。

狐一対・石灯篭一対。


この石灯篭の紀年銘はわかりませんが古そうです。狐一対は新しいものですね。

石灯篭一対(萬延元庚申歳6月10日・今村宗愛敬建)。毎年旧暦の6月10日に例大祭、その前夜に宵宮が開催。


手水舎と狐一対(于時明治6年6月10日)。たまに出てくる「于時」。「トキニ」と読みます。




庚申塔など。「金毘羅山」の文字も見えますね。この付近では珍しいです。

こちらは裏面。「佐々木喜…」(明治24年2月26日)…下部が埋まっています。

末社稲荷宮。


狐だらけ。

こちらの末社の裏には石があります。

「霊狐墓」。

拝殿。


境内。


本殿。

本殿裏手のケヤキ。

ケヤキの案内板。

本殿裏手から稲荷橋が見えます。

神徳(皇紀2600年吉日・陸軍少将三浦眞謹書)…『抑々當社稲荷神社は倉稲魂神を奉祀し始め異吹山白狐寺と稱し奉る寶永5年10月弘前城主津軽越中守信政之を創建するや永代御供米212俵を寄進し尊崇頗る篤く歴代藩主領民相承け霊験瑞祥に浴す明治6年法令に依り別當を廢し村社に列せらると雖も社殿概ね荒廢に歸す明治14年以來氏子町田才之丞加藤幸助等神意を慮り舊態復興に努め構装年と共に革まる然るに昭和14年氏子蒔苗松の唱導に據り相謀りて本殿改修の工を起し翌昭和15年即ち皇紀2600年の大典に際し拝殿改修竝に境内の整備を圖る其の竣工するや益々神域の尊嚴浄化を加へ面目更に一新し衆庶擧つて本事業の成果を讃賞して歇まさるに至る 今茲氏子有志の廢議に依り當社の縁起を録し篤信有徳の善行を後昆に傳へ敬神崇祖の美風涵養に資せむと云爾 昭和16年7月陸軍少将從四位勲三等功五級三浦眞篆額 弘前市長正七位乳井英夫撰文竝敬書』

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