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川守田町は江戸期には三戸城下八町の1町で三戸城下の北に位置します。明治元年に盛岡藩が廃藩となり支城としての三戸城下の機能も失われ、城下八町はそれぞれ独立した町として扱われるようになるも、その際三戸を冠称して三戸川守田町と呼ばれることがあり、また旧城下全体を三戸町・三戸村と総称することもありました。
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御祭神は伊耶那美命、速須佐之男命。祭日は旧6月15日。創建不詳。境内地945坪、本殿1坪、幣殿2坪、拝殿6坪。享保年間の勧請といわれ、後に川守田入道が此の地を領しましたが、崇敬の念厚く此の熊野神社を祈願所とし、社殿の造営等にも力を注いだといわれています。入道の子孫川守田弥五兵衛は時の南部家より社領下附の覚書を賜っています。明治15年村社、大正4年7月13日神饌幣帛料供進指定。
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「南部五郡小史」に人皇三十五代舒明天皇白雉三壬子年十二月勧請とあり、「三戸郷土史」にも同じ記載が見られるものの、白雉三壬子は孝徳天皇の時であり、いずれも間違っていると思われます。藩政時代に民間の手に委ねられていた地方の旧郷社、旧村社が明治になって政府の神社行政の下におかれ、由緒等を提出するように言われ、提出した文書にもやはり舒明天皇白雉三壬子とありますが、恐らく「南部五郡小史」の筆者太田弘三に依頼して作成したものと思われます。その由緒には次のように書かれています。「舒明天皇白雉三壬子十二月の勧請、中世天正年中に至り川守田常陸入道此の地に留まり、川守田を領し、当時五百石を領し、専ら神事に心をつくし、此の熊野神社を祈願所となす」。
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常陸入道の川守田家は南部光行入部以前からこの館にあり、南部氏に重く用いられました。別当は代々修験宗の志田家がつとめていました。61世が志田静馬で、静馬の嫡男岩太郎は日本郵船会社に勤務し、日露戦争では陸軍御用船土佐丸、第一次大戦では海軍御用船加賀丸の事務長をつとめ、大正7年に事務長として平野丸に乗船、欧州戦争中であり、アフリカ喜望峰を廻航して英国に向う途次大西洋(アイルランド沖)においてドイツ潜航艇に撃沈され、職務に殉じました。47歳。現在志田家は神社に関係していません。
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摂社に蒼前神社(元木平・現在の馬暦神社)・法呂稲荷の二社がありましたが、戦後独立の神社となっています。
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狛犬一対(昭和3年6月15日)。
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石灯籠一対(昭和31年10月21日)。
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手水石(明治45年6月15日)。
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拝殿。
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拝殿向拝。
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神額は「熊野山」。
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幣殿・本殿覆屋。
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御神木。
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不明の石。
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石塔と熊野神社移転の事由が書かれた碑がありました。
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川守田館…『今東張渡通称中野崎より川守田常陸入道の曽孫法名損館征兵長威居士、俗名川守田弥之助の石碑をこの地に移す。この石碑は川守田弥五兵父の供養の為建立したもの。今や川守田一族この地を去り、川守田館また一族無縁の私有地となれり。歳月の流れ時世の変遷人知の計り得るところにあらず。熊野神社境内地は旧川守田家の領地にして神社は川守田家の氏神なり。弥之助の霊を神ながらのまつりにより川守田弥之助彦命と改めこの神社の守護神とす。以上移転の事由を誌し後世に残さんとす。昭和55年7月佳日』
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『守将は川守田常陸入道正広。三戸城北方を固めた重要な館であった。元亀3年(1572)3月、後の26代南部信直が川守田毘沙門堂参詣の際、不和の関係にあった養父晴政に襲われ、この館に避難し危機を脱した。また、天正10年(1582)1月、25代晴継の葬送の帰途、信直が九戸勢の襲撃に遭い、この館へ避難、信直自ら鉄砲を撃ち撃退した。三戸城への火急の連絡には、常陸入道が強弓で矢文を飛ばしたといわれる。碑は、天和4年(1684)死去の川守田弥之助正定の碑で、施主息子弥五兵衛の建立。平成元年10月2日』
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境内から見える参道、一之鳥居、旧三戸城
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