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上杉神社境内社の春日神社。
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御祭神は春日四柱大神(天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売神)。米沢藩主家上杉氏の氏神で林泉寺の鎮守でした。
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春日神社の創建は天徳2年(958)、現在の新潟県上越市にある春日山に春日大社(奈良県奈良市)の分霊を勧請したのが始まり。永徳元年(1381)に長尾高景が春日神社の境内に春日山城を築くこととなると、城の北東に遷座し鬼門鎮護の鎮守社として歴代長尾家から庇護されました。明応6年(1497)に長尾能景が父親である長尾重景の追善供養のために林泉寺を創建すると、神仏習合し林泉寺の守護神となります。長尾影虎(謙信)が上杉家の名跡を継ぐと、上杉家が藤原家の家系であり、藤原家の氏神が春日神だったことから、以後、上杉家の氏神としても信仰されるようになります。その後、上杉謙信が改宗して真言宗となり、上杉景勝も真言宗を信仰したため、景勝が慶長3年(1598)に会津黒川城(福島県会津若松市)、慶長6年(1601)に米沢城と領地を替えた時も従わず春日山の麓に留まりました。その後、謙信の実姉で景勝の生母でもある仙桃院が尽力したことで林泉寺も米沢城の城下に移ることとなり、元和3年(1617)に春日神社を伴いようやく米沢で創建されます。春日神社は歴代米沢藩主から庇護され、特に9代藩主上杉鷹山(治憲)は明和4年8月1日(1767年8月24日)に藩主就任の際、江戸藩邸からの内使をもって極秘のうちに新藩主としての決意を表明した誓詞を奉納したことで知られます。この誓詞の存在が公に知られたのは、慶応元年(1865)の林泉寺学寮の火災により神器を延焼から守るために運び出した際のことです。
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明治時代初頭の神仏分離令により林泉寺から離れ、明治9年に上杉家の菩提寺の1つで同じく神仏分離令により上杉神社の神官となった大乗寺の邸宅に遷座。同27年に米沢城本丸西南の隅に遷座。大正8年に米沢大火にて焼失したために松岬神社に合祀されていましたが、氏子らが中心となり昭和56年に社殿(一間社、春日造、銅板葺)が米沢城本丸南隅の現在地に遷座再建。
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社号標(昭和56年10月吉日建立・春日明神信仰会氏子一同)。
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拝殿と石灯篭一対(平成27年9月吉日建立・春日神社信仰会)。
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本殿。
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案内板より…『武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比賣神。以上四柱を春日大神と稱し当神社は上杉家の祖神更には地域住民の守護神として尊崇敬慕され例年欠かすことなく祭祀を催し御神徳の御加護に浴し来たるも大正8年米沢大火の爲焼失致し爾来60有余年に亙り松岬神社に合祀来るものなり氏子一同当時の様相に想を馳せ敬神進慕の情止み難く茲に再建せんことを誓ひ合ひ広く市民の協賛を仰ぎ建立完成を見たるものなり。昭和56年10月信仰会員一同』
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傷痍之碑(恒久平和祈念)。
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『ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み鎮魂のため上杉神霊の加護を祈願奉納するものである 昭和57年5月1日米澤市傷痍軍人會・米澤市傷痍軍人妻之會』
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こちらも傷痍之碑。
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こちらは…読めず!
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誓詞…『一、文學壁書之通無怠慢相務可申候 一、武術右同断 一、民之父母之語家督之砌哥ニモ詠候ヘハ此事第一思惟可仕事 一、居上不驕則不危又恵而不費ト有之候語日夜相忘間敷候 一、言行不齊賞罸不正不順無禮無之様愼可申候 右以來堅相守可申候若怠慢於仕者忽蒙 神罸永可家運盡者也仍如件 明和四丁亥歳八月朔日 上杉彈正大弼藤原治憲敬書(花押)』と副碑…『上杉治憲公(鷹山)が17歳で藩主となられた頃の米沢藩は、度重なる減封と飢饉で藩を幕府に返上する外なしと決意する程であった。公は生涯をかけて藩を再興すべく固い決意の誓詞を春日社に奉納なされる。「文武ノ鍛錬ハモトヨリ 国ノ老人ノ話ハ良ク聞キ 日常ノ生活ハ質素ヲ旨トシ驕ル事ナク身ヲ正シ 若し反スル事アレバ直チニ神罰ヲ受ケル覚悟デアル」と誓われる。だが此事は誰一人知る者なく99年後神社火災で始めて発見されたもので、公のお陰げで藩は見事に再興され上杉家中興の祖と仰がれた。此処に公直筆の誓詞を石碑に刻み御遺徳を永く顕彰するものです。平成23年9月春日神社信仰会』。
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春日神社の由来…『今から1040年程前越後の国司として派遣されていた藤原遠成が、上越の春日山頂に奈良の春日大社を分霊し領内の平和を祈りました。戦国時代の上杉家は代々春日社を守り神として敬い続け、藩主の移封と共に会津から米沢へと移ってまいりました。その後、減封を続けた上杉家は藩の財政が苦しく、再建を願った10代鷹山公の春日社への誓詞奉納は有名な事実です。明治5年に現在地へ移った春日神社は、大正8年の米沢大火により上杉神社と共に類焼し、松岬神社に合祀されましたが、昭和56年市民の浄財により再建され今日に至りました。例祭日9月第3日曜日。平成13年9月春日神社信仰会』
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