イメージ 2
東京都千代田区霞が関。虎ノ門駅11番出口付近。
イメージ 1
文部科学省構内。中央合同庁舎7号館の建設に伴う発掘調査成果をもとに石垣を保存し、文部科学省構内ラウンジ前と地下鉄銀座線虎ノ門駅の新庁舎連絡通路内に発掘された石垣の全貌が見える展示コーナーが設けられています。
イメージ 3
イメージ 4
地下展示室へ。
イメージ 5
石垣の石。
イメージ 6
イメージ 7
先程の石垣をじっくりと見ることができます。
イメージ 8
イメージ 9
江戸城外堀普請と虎ノ門…『この図は発掘調査で判明した江戸城外堀跡をもとに江戸と現代の地図を重ね合せたものです。この図によって虎御門が現在の虎ノ門交差点付近に位置し、東の街区がかつての外堀となり、当敷地三カ所の石垣や櫓台石垣は外堀西岸にあることを読み取ることができました。四神相応の大道を表す「白虎」に由来するといわれる虎御門は、かつて外桜田門から続く小田原道が通っていたといいます。外堀に唯一ある櫓は、門とともにこの街道を守る拠点であったとも考えられます。また、当地周辺では外堀に面して延岡藩内藤家の屋敷が、対岸の金比羅神社は、讃岐丸亀藩京極家屋敷内にあった社であることが分かります。このように、遺跡発掘調査によって江戸城外堀跡が明らかとなり、そこからまちづくりの歴史を学ぶことができます。』
イメージ 10
イメージ 11
イメージ 12
イメージ 13
①中庭部の石垣…『延長約35m、7段(高さ4.5m)の石垣が残っている。この地点は、九鬼久隆の築いた地点と多くの大名によって築かれた場所に該当する。現地に公開中である。』
イメージ 14
②地下鉄部の石垣…『延長25m、15段程度(高さ約7.4m)の石垣で、ほぼ築城当時の高さを残している。この地点は、北端を除き毛利高直の築いた場所に該当する。この石垣は江戸城外堀跡鍛冶橋北側の堀石垣(丸の内一丁目遺跡)から出土した石を利用して修復した。』
イメージ 15
③旧教育会館の石垣…『延長9.5mで2段の石垣である。この石垣は、江戸時代のものではないが、石垣下には旧来の石垣が残り、史跡指定されている。この地点は、池田長常が石垣を築いた場所である。』
イメージ 16
④櫓台跡の石垣…『櫓とは要所を見張るための建物をいい、江戸城外堀では唯一ここだけに櫓があった。この地域が江戸城を防備するうえで重要な地であったことを示している。現在も国史跡として保存されている。』
イメージ 17
大名の丁場(工事区域)…『江戸城築城は、御手伝普請といって大名に材料から労働力までを負担させる工事であり、外堀構築には100家を超える大名がその石高によって工事区域を分担していた。当地点では、石の表面に付された刻印の違いなどから大名の区域分担が判明した。』
イメージ 18
明治初期の石垣(所蔵:石黒敬章)…『この地点の外堀は、文部省庁舎完成とともに埋められるが、明治10年の工部大学校(東京大学工学部の前身)建設時には堀があった。』
イメージ 19
江戸城外堀と現代の東京…『東京は、いうまでもなく江戸の城下町から発展した都市です。その中心である江戸城は、慶長9年(1604)から寛永13年(1636)にかけて造られた近世最大の城郭です。なかでも江戸城外堀は、築城の最終にあたる大工事で、これによって城下町を取り囲む延長約14kmの惣構が完成します。明治維新後は、江戸の防御施設である外堀は役目を終えて一部は埋められていきますが、今も道路や鉄道網など都市の骨格に利用されています。この図は、江戸城の痕跡や江戸の町割りを現代の街区に重ね合せたものです。この図から地形を巧みに利用して江戸城外堀や町がつくられ、それが現代の東京に引き継がれていることがよくわかります。』
イメージ 20
イメージ 21
イメージ 22
①溜池落口「大日本全国名所一覧」(平凡社)より(明治初期の様子)…『江戸城外堀南方の堀には堰を設けて築いた溜池があった。ここは江戸初期の上水源でもあり、かつてはこの堰から滝のように水が流れていたが、今は埋め立てられている。』
イメージ 23
②虎ノ門「旧江戸城写真帖」(東京国立博物館)より(明治初期の様子)…『虎ノ門交差点南方には、江戸城外郭門の一つ虎御門があった。四神相応の白虎に由来するなどの説がある。奥の高台は、かつての延岡藩内藤家の屋敷である。』
イメージ 24
③東京市街鉄道「幸橋附近」(所蔵:交通博物館)より(明治中期の様子)…『かつての江戸城外堀(外濠川)沿いに走る鉄道高架線である。大正年間頃の新橋から有楽町駅方面を望んで撮影したもので、奥には帝国ホテルがみえる。』
イメージ 25
④甲武鉄道「四ツ谷・市ヶ谷間」(所蔵:交通博物館)より(明治中期の様子)…『四谷・市ヶ谷間の江戸城外堀沿いを走る甲武鉄道市街線である。現在もこの付近の掘は残り、都心では貴重な緑地や水辺が受け継がれている。』
イメージ 26
⑤市ヶ谷付近(現代の様子)…『牛込門から赤坂門までの堀は、国史跡江戸城外堀跡として指定されている。このうち牛込から四谷までは堀が残り、中央線・総武線が走る。』
イメージ 27
⑥弁慶濠(現代の様子)…『牛込門から四谷までは神田川の支流、四谷から溜池を経て汐留に至る谷を利用した。この堀は渓谷のような地形となっている。』
イメージ 28
江戸城外堀普請(土木工事)の技術…『外堀は城の防御のための重要施設であることから、普請には当時の土木工事技術の先端が使われています。以前は工事現場近くの材料で土木工事をしていましたが、大規模な外堀普請には「工場」での材料製作、材料の工場から現場までの「運搬」、現場での「施工」という流れで現在の工事と同じように、分業化された効率的な工事が行われました。「工場」の伊豆の石切場では効率的な施工を考慮し規格化された石を加工しました。「運搬」には場所に応じて、経験則から力学を応用した船や道具で行いました。「施工」は高い石垣を築くために断面形状を工夫して行いました。また、これらの様子は「築城図屏風」などに描かれ、都市を造る土木工事の活気を伝えています。』
イメージ 29
イメージ 30
イメージ 31
古文書による石垣断面形状…『惣規合1丈4尺3寸7分(天端A~D)・本高さの1/3(2丈7尺)以上の14間(5丈5尺)に規合をつける。割り付け1+2+3+……+14=105・1丈4尺3寸7分(惣規合)÷105=1寸3分6厘8毛14間(1間は4尺間隔)の各規合差→0.137とする。』
イメージ 32
構造計算による石垣断面形状…『高い石垣を築く技術。江戸時代の石垣技術書には、高石垣を安定させるために上へ行くほど急勾配になるよう「反り」を入れた設計図がある。この石垣の設計図は、現在の構造計算結果による安定曲線と近似している。こうした技術は、当時の経験則から培われたものであった。』
イメージ 33
石材運搬…『江戸に運ぶ石は、波打ち際に停泊している筏に積み、沖に固定されている石船まで運ぶ。この筏から大きな石船に積み替えるには、巻き込み用のろくろ船によって移動した。』
イメージ 34
石垣の規格化…『近世の石垣は、古くは「野面積」という自然石を使い勾配は緩やかであった。次第に加工石材を用いるようになると、急勾配の高石垣を造れるようになる。江戸城外堀石垣は、多くの大名が大量に石を切り出して積まなければならないため石材は規格化され、効率的に工事を進める技術や体制が熟成していった。』
イメージ 35
築城図屏風(一部)所蔵:名古屋市博物館…『築城の様子を示した屏風である。』
イメージ 36
史跡江戸城外堀跡の石垣…『正面の石垣は、虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。この石垣は、寛永13年(1636)に築かれたものですが、部分的に不揃いな積み方があることから、数度も改修されたと考えられます。石垣表面には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印が見られます。もともとこの堀は、石塁として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけです。ここでは、長さ20m、高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施しました。この展示室と旧庁舎中庭石垣では、外堀の堀底および推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現しました。当敷地内には3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示しました。これによって、江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。』
イメージ 37
イメージ 38
イメージ 39
以上、史跡江戸城外堀跡の石垣でした。
イメージ 40

イメージ 41

イメージ 42

イメージ 43

イメージ 44

イメージ 45

イメージ 46

イメージ 47

イメージ 48
イメージ 3
イメージ 2