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山形県米沢市中央5丁目。戌亥の守り本尊八幡神を祀る曹洞宗萬用山東源寺。五百羅漢尊之靈場。
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東源寺と五百羅漢…『当山は、文明8年(1476)長野県飯山市に源氏・飯山城城主の帰依により建立され、みなもとでらと称した。以後藩主上杉氏の移封に随い会津・米沢と移転し、正保2年(1645)郷土米沢の恩人直江兼続公の霊を祀るため、現在地に伽藍を建立し兼続公夫妻並びに嫡子平八殿の霊牌が奉祀された。また当山に安置している五百羅漢は、天明3年に始まる東北地方一帯の凶作、天明の飢饉のおり五穀豊穣祈願のため、27代宗岳和尚が発願し五百体の羅漢像を米沢の仏師遠藤亀次に謹刻させたものである。仏師は一心に彫り続け20数年の歳月を費やし、五百体の仏像がみごとに完成し、以後朝夕民衆の平和を祈願し今日に至っている。米沢市・米沢観光協会』
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さっそく五百羅漢を拝みに羅漢堂へ!と思ったら鍵がかかっています。
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羅漢堂は違う場所かな?もう一度案内板を確認。
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直前現場予約じゃダメですかね…それは予約と言わない(笑)…下調べが足りませんでした。
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さて、東源寺は文明8年(1476)覚永和尚により創建。当初は信州水内郡泉郷(長野県飯山市)にあり、尾崎氏(鎌倉幕府御家人泉親衡の後裔泉氏の一族)の菩提寺の1つとして庇護されて寺運も隆盛。
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戦国時代に入りますと尾崎氏は泉氏の没落もあり上杉家に従属するようになり、泉(尾崎)弥七郎重蔵の娘(蘭子)が上田上杉家家臣である樋口惣右衛門兼豊に嫁ぐなどし関係を深めて有力家臣になっています。
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樋口兼豊と蘭子(藤)との子供が上杉家執政を司った直江兼続。元和5年(1619)に兼続、寛永14年(1637)に妻の船が死去すると菩提寺であった徳昌寺が庇護者を失い衰微し、変わって上杉家と関係が深かった林泉寺が台頭したため、徳昌寺は廃寺に追い込まれました。堂宇も徹底的に破却され、兼続夫妻の墓碑や位牌も取り上げられて供養もされませんでした(※徳昌寺は直江家の旧領である新潟県長岡市与板で再び創建され、直江家の位牌を祀っています)。そこで、兼続直属の家臣たちが兼続の母方の菩提寺である東源寺を正保2年(1645)に米沢城下に招き、改めて夫妻と長男景明の位牌を作らせて、命日には法要が執り行われるようになり現在でも続けられています。
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直江兼続は名将・名軍師と誉れ高い武将ですが、結果的には会津120万石の大藩から30万石の小藩へ没落させた張本人であるとして反対派が多く、兼続夫妻が死去したことで事実上の罪人として扱われ、没後100年後にようやく院殿の付いた戒名「英貔院殿達三全智居士」が与えられ、更に没後150年に米沢藩による法要が行われています。
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寺宝である五百羅漢像は東源寺27世の宗岳和尚が、天明の大飢饉、天保の大飢饉の被害者の冥福を祈るために、天保の末頃から文久3年まで約20年間にわたり、米沢北寺町出身の仏師遠藤亀次に製作依頼したもので、28世祖岳和尚の代でようやく完成。遠藤亀次は米沢の仏師で、寺に住み込み、一人で作りあげました。五百羅漢像の製作にあたっては、武士、僧侶、町人、農家など様々な身分に広く浄財を募ったため、像の前には寄付をした人物の名前が記された木札が掲げられています。十六羅漢像はやや大きめで、高さ約52cmで、羅漢堂の正面に釈迦・文殊・普賢像と一緒に並んでいます。残りの羅漢像は高さ約30cmで、羅漢堂の四方にぎっしりと配置。寄木造りの木像で、眼球を中から入れ、鉱物性の顔料で鮮やかな色に塗られています。一人ひとり表情が異なっており、その中に必ず自分の身近な人に似た顔を見つけることができるといわれています。
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