
宮城県仙台市青葉区青葉町。

青葉神社と青葉まつり…『明治7年(1874年)藩祖伊達政宗公を祭神として創建された。参道を登ると社殿が見えてくる。池の中の島には政宗の臣下を祀り、本殿内には夫人を祀った愛姫神社がある。祭典は5月24日・25日(春祭)と10月9日・10日(秋祭)に盛大に行われる。青葉神社ゆかりの仙台・青葉まつりが、5月の第3日曜日とその前日の2日間、市街中心部を会場として開催されており、全市挙げての祭りとなっている。』

大鳥居。


平成23年3月11日の東日本大震災にて倒壊した大鳥居。敢えて処分はせず、世の平穏を祈るモニュメントとして姿を変え、現在の大鳥居の脇に配置されています。

紀年銘は震災の日となっており、中央には和龍が描かれていました。

世の平穏を願った書画「和龍」。平成20年に仙台出身の画家により奉納されたもので、武振彦命(伊達政宗公)の御心である世の平穏の思いと一致し、日本人の和の精神を広く伝えていくために御守や幟等に正式採用されています。赤い緋の丸は太陽を表し、天照大御神も意味し、口の部分には稲が描かれており、稲や穀物を神様に献上するという事も併せて表現されています。

参道石段。

参道石段と石灯篭一対。

石灯篭一対(明治18年5月24日)。


石碑…『赫々千古ニ輝ク神徳ヲ欽仰シ奉リ山田正一氏今回多額ノ資ヲ奉獻シテ傾頽セル石階参道又ハ石燈籠水屋屋根或ハ本神社碑ノ移轉等境内ノ修築ヲ為シ尚進ンデ拝殿ヨリ中央ノ石階ニ到ル混凝土参道ヲ鋪装シ社頭ニ光彩ヲ添ヘ参拝者ニ便宜ヲ與ヘラレタリ茲ニ石ニ刻シ永ク其篤志ヲ感謝表彰スト云爾 昭和八年五月二十四日 縣社青葉神社司正四位勲六等男爵片倉健吉撰』

参道石段と狛犬一対。

狛犬一対(昭和18年4月建立・中目覺)。


御大禮及青葉神社改築遷座祭記念碑(奉獻植立檜壹千貳百株・昭和3年10月9日仙臺市區長一同)。

参道。


石灯篭。

御神木。

狛犬一対(昭和甲戌9年2月25日)。


参道。

石灯篭一対(昭和7年10月吉日・成田山丸石講仙台組)。


石灯篭。

石灯篭一対。


梵天講舎跡・通町小学校発祥の地(昭和51年9月5日)。通町小学校は明治21年9月に青葉梵天講舎を借りて私立通町尋常小学校として開校。大正6年に校舎を建設して現在地に移転。

五重塔。

石灯篭一対(伊達成實十三世孫・伊達邦成)。伊達邦成(1841-1904)は仙台藩一門亘理伊達氏第14代当主。


手水舎。

伊達政宗公がおりました。

青葉神社…『【御祭神】武振彦命、仙台藩祖伊達政宗公【旧社格】県社【創建】明治7年(1874年)。現社殿は大正11年(1922年)から昭和2年(1927年)にかけて立て替えられたものである。【春大祭】5月24日。寛永13年(1636年)71歳で没した政宗公の命日【例大祭】10月9日。寛永3年(1626年)8月19日黄門の位・従三位権中納言に任ぜられた日を太陽新暦に換算して此の日に定められた。【境内社】境内社として政宗公の御正室愛姫様を祀る。愛姫神社があったが現在は本殿に合祀されている。』

手水舎横の建物。

鷹の像(伊達政宗公350年祭記念・昭和60年4月吉日)。

碑文の鷹丸とは鷹狩好きの政宗公の鷹のことでしょうか。

青銅製灯篭一対。


一見シンプルに見えますが、小さな龍や獅子が浮き彫りされていたり、繊細なデザインになっていました。


青葉神社の御祭神は贈従二位伊達政宗公(神号:武振彦命)。明治御一新にあたり、仙台藩祖伊達政宗公の遺徳を景仰する有志が明治元年7月14日に神社の創営を請願。明治7年2月7日願いの通り聞き届けられ、神号を武振彦命、社名を青葉神社としました。社名は政宗の居城である青葉城とちなみます。同年6月25日に県社に列せられ、明治7年7月1日より本殿、拝殿、神楽殿、社務所等の建築に着手、同年11月11日落成、同年11月15日に鎮座祭を執行。当時の本殿は杉柾素木、神明造屋根茅葺13坪7合2勺、拝殿は杉柾素木、神明造屋根柿葺、36坪7勺。その後、大正11年より社殿の改築を行い、昭和2年に現在の社殿が完成。


主な年間行事そして、「仙台・青葉まつり」神輿渡御(5月第3日曜日)、春祭(5月24日、25日)、秋の例大祭(10月9日、10日)等を斉行。境内社として伊達政宗公の家臣を祀る祖霊社があります。なお、政宗公の正室愛姫様を祀る愛姫神社がありましたが、現在は本殿に合祀。平成23年3月11日の東日本大震災にて鳥居が倒壊する被害を受けるも平成26年5月に再建。社宝として拝殿に据えられている「時の太鼓」があります。この太鼓はもともと仙台城内にて時や合図を知らせるためのものでしたが、維新後の城の取り壊しに伴い民間に払い下げられ、明治8年に当神社に奉納されました。元文元(1736)年、5代藩主吉村公が現在の京都市三条東山区の太鼓屋、橋村利右エ門利重に命じて制作したものです。

ちなみにwikipediaによりますと、明治6年10月14日に旧藩士の松本喜蔵、丹野彦三郎・小泉長善を総代とした住民が、伊達政宗を祀る神社を建設する許可を宮城県に願い出ています。松本らの言うところでは、天保の初年頃に政宗を祀る神社を建てる許しを当時の藩主伊達斉邦が朝廷から得て、仁孝天皇の勅額をもって城に近い亀岡に社を築く計画でしたがなぜか中止となり、士民は貞山講を結び、忌日ごとに廟(瑞鳳殿)に集まり酒餞を供していました。朝廷が許容してくれれば神明社(現桜岡大神宮)の隣に社壇を設け神祭したいといい、宮城県は意見を付けずに教部省にとりつぎ、教部省が賛成し、12月22日に太政官が建設を許可。なお、この年には徳川家康を祀る日光東照宮が別格官幣社に認められており、諸藩の藩祖を祀る神社の創建申請が翌年にかけて全国で相次ぎました。実際に神社が建てられたのは、仙台城下町を南北に貫いて北に向かう奥州街道(通町筋)が、北山丘陵にぶつかって東に向きを変えるところ、即ち国分町から一直線に北に向かった突き当たりです。ここには伊達家の菩提寺で北山五山の中心の東昌寺がありましたが、東昌寺の敷地の西側3分の2が青葉神社に提供され、東昌寺の建物はその東側の満勝寺跡地寄りの現在地に移されました。昭和15年には別格官幣社に列してほしいという請願があり、貴族院の賛成議決を得ましたが、他の功臣を祀る神社との権衡がとれないという理由で内務省が反対し実現しませんでした。ちなみに現在の宮司は仙台藩家老白石城主片倉家の16代当主であり、ゲーム『戦国BASARA』のヒットにより、登場キャラクターである片倉小十郎の子孫に会うことを目的に当社を訪れる女性(歴女)が増加しているとのこと。

拝殿。

拝殿向拝。

本殿はよく見えず。

こちらは神楽殿でしょうか。

祖霊社へ。

祖霊社鳥居。

手水石。伊達家の家紋がいい感じです。

東日本大震災復興工事碑(神池護岸石積修復並び灯篭修復工事・平成26年5月吉日)。

伊達政宗の画(高橋聡作)がいい感じです。

神池。

神池と石灯篭。

祖霊社。


祖霊社…『伊達政宗公に、仕えた家臣達を祀る神社。明治12年9月6日建立。春大祭5月24日。秋大祭10月9日。青葉神社・祖霊社【由緒(その一)】藩祖御手植松の弁、抑々「當地ハ旧東昌寺の境内なり」、其原由をたつぬれハ、當寺は弘安6年(1283)伊達家四世政依公が伊達郡桑折に開山する。即ち當寺は伊達家最初の菩提寺であり、永徳3年(1383)米沢郷に移り、慶長5年(1600)に岩出山より此地に移り、當寺第十四世大有康甫和尚が創立する。今昔、陸奥の國宮城郡なり、政宗卿二十一郡を領し給ひし時、伊達よりこの青葉の城にうつり、所を仙臺と改め、その折伊達にありし寺々までこの仙臺にうつしける。仙臺の北に當り一ツ岡山あり、これを北山といい伊達より移す六ヶ寺を置く。(寂光寺、輪王寺、覚範寺、資福寺、東昌寺、光明寺)則この東昌寺ハ伊達家の内祖東昌寺殿の霊位を移し、(1)伊達家四世政依公、(2)十三世尚宗公、(3)十四世稙宗公、(4)十五世晴宗公の牌所とす。開基は政宗卿伯父一風軒大和尚の開基なり、其の頃この境内に古びたる池あり、往古より■(さんずい+區・おう)麻池(おうまがいけ)といへり、いかなる旱魃にもその水ひる事あらず、幾千年という事たしかならす、是の北山の西に當り五十里程を隔て和泉岳といふあり、山上湖水あり、湖水を隔西に當り白髭山といふあり、又夫れより東に七魏峯あり、和泉岳の山脈は即ちこの北山にて鹿島崎にとまる、この山脈のとまり蛸の足の如し、所々の山の止まりあり、【由緒(その二)】先北山東昌寺ハ一風軒大和尚の開基にて大伽藍を造営し東昌寺殿の霊位を安置したる寺なれば政宗卿折々伯父一風軒大和尚を訪ひける寺におう麻池と申ハ心といふ文字に作りたる池なりけるか、政宗卿ある時鉢の松を持来なり、この中島に自ら手植えにせられけれハ、後年手植の松と云り、又おう麻池も心といふ文字によりて後ち心の池と称ける、◎且此所に青葉神社を願成する来由ハ、東昌寺は政宗公の伯父様が其の寺の十四世になった関係もあり、貞山様とは因縁浅からざるものがあった譯で、青葉神社が此処へ立てられることは当然と思はれる。【註日】政宗公は折々には東昌寺や覚範寺などに、再々臨まれて住僧らと詩や歌を作るのが楽しみであった。「伊達政宗卿伝記資料」寛永6年3月17日「東昌寺に赴き詩歌の会あり」。闕題「千紅萬紫 総て塵と成る 惜しむべし李桃 老身を悩ます」一夜風光雨を催す■(片+庸・まど)半庭錦を敷く 落春ことにちる花と知らすは。又た寛永8年4月9日の條に「東昌寺に赴きて詩歌会を催す」卯月九日東昌寺西堂江御出之時、当座 新寺祝 卿 「あらたまる栖位は松に立ち並び千代の齢を契りこめつゝ」新緑「散遇し花の梢は緑にて詠そうつる西方の山なみ」同「春儘萬山緑正新、寺前延席更無塵、主賓共酌盃中酒、終日吟遊別袖頻」元この寺の住職藩祖政宗卿の来臨を夢に見て覚る時、政宗卿世去の報江戸より来る、續而尊骸當時に入られし縁故あり、この地たるや仙臺市街を眼下に見下ろし、實に神霊のまします所。是即天なり、命なり、人の能及ふ所にあらす、【由緒(その三)】且西の隣寺は覚範寺殿にして政宗卿の御実父なり東隣寺ならひ今四ヶ寺は中祖の寺なり、然るにこの神社の神霊いちゝるしき、先年山火事といふて和泉岳の麓より焼始り、晝夜諸方に蔓延、北山六ヶ寺丸焼けなり、そのおり本社は神明作りにてかや葺なれとも、依然として残れり、是一の不思議なり、又同社より神器祭器をせつ盗し行衛しれさる所、動く事叶す、故に一品の紛失もなく立戻りしなり、是即ち神霊のいちしるき火難盗難その外枚擧にいとまあらす、又病難も疫病及瘡痍の効験を折々見聞恐入なり、但し神は非礼を請されハ一ハ信仰にもよらん、実に百万邦土の太守にして五十四郡の旗頭の鎮守府と称せられしもことハりにあらす、嘆呼、その旧臣の輩 この報恩を忘却せず 永く尊崇たらん事を。』※宮城県立図書館蔵書・昭和15年9月・仙臺郷土研究第十巻第九號・青葉神社特輯號より編纂

こちらは状態が微妙で内容は読んでいませんが、篆額は「青葉神社碑」です。

社務所・守札授與所。


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