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十和田市史跡・文化財マップによりますと『三日市集落の東端にある館跡である。天正19年(1591)の九戸政実の乱で九戸側についた三日市越中(越前)の居館とされ、市内最大規模の館跡である。館跡は三つから四つの廓で構成されたといわれるが、九戸の乱で敗者となった三日市氏にまつわる文献資料は乏しく、後に土地が開発されたこともあり、全容は明らかでない。現在も館跡の一部が残るほか、周辺には一字一石経塚がある。』とあります。
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相坂川の河岸段丘を利用した館跡です。また、横の道路はかつての堀跡になります。
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神社がありました。
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社殿。
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社殿内。
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館神社(舘神・三日市館を築いた主公の守護神)のようです。棟札(日支事変戦勝祈願、舘神社三尺四面御堂、聖上御安泰五穀豊穣・紀年銘昭和16年5月8日)がありました。十和田村史の白山社の項には、故太田寛造の「十和田村小史」に「攝社白山神社、祭神推古天皇」とあり、この祠は元来三日市舘の一角、堀の向いにあり、おそらくこの舘を築いた主公の守護神だったかも知れず、近くに御舘神があり、この祭神の主なるは南部第一世光行で、南部家に関係のある人物が初めてこの地に築舘し、この初めの舘神が後に白山社に盛り返されたと推測されるとの旨が書かれていました。
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館八幡という神額(昭和49年1月)もありました。恐らく元々は社殿正面に付けられていたものです。元禄7年の勧請(御祭神応神天皇)の八幡宮なのかな。不明ですが。
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で、一字一石経塚…どこやねん…西郭の一部しか見てないけど。社殿の真裏に巨石ならありました。
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西遊記念碑(昭和33年2月1日~同年2月18日三日市の一行38名。順路は裏面に記載されていました。)。
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記念碑の紀年銘は昭和33年5月15日。
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