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三戸郡南部町下名久井鍛冶長根。法光寺別院跡、犬房坂上。
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下名久井村は江戸中期に名久井村が当村、高瀬村、平村、上名久井村、鳥下内村、鳥谷村、法光寺村、泉清水村に分村して成立したと考えられます(諸説あり)。
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神社として八坂神社と白山神社(高瀬村諏訪神社に合祀されるも、現在は白山下河原の南方台地白山に在り)が見えます。八坂神社は元文2年草創と伝え、奇峯学秀による牛頭天王像を安置し、村民の信仰が篤かったそうです。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊。祭日は7月15日。下名久井城の東にある城の守り神。境内には牛頭天王堂がありますが、ここの御本尊が上記で説明した奇峰学秀(田子町・青森円空と称される江戸時代中期の僧侶)が造った牛頭天王像です。明治初年の神仏分離令により、牛頭天王と同じものとされる素戔嗚命を御祭神として八坂神社を新しく建て、産土神とし、牛頭天王を末社としました。
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社号標(昭和13年7月15日)。
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狛犬一対(明治34年6月14日)。
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石燈籠一対(文化13年7月吉日)。
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手水石(文政12年6月15日・奉納御寶前)。
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拝殿。
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蟇股・木鼻。
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拝殿神額。
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本殿。
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末社。
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末社。
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こちらには釈迦如来っぽい坐像が祀られていました。
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紀念碑(明治37、8年)。明治三十七八年の紀年銘は日露戦役記念碑です。
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牛頭天王堂。
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奇峯学秀作の木造牛頭天王像は町指定文化財。像高約70cm。牛面を額に施し、髪を逆立て、目と眉を吊り上げた厳しい表情をしており、左手に斧、右手には羂索を持ち、堂々と台座に座っています。顔は胡粉と朱で彩り、これまでの学秀の作柄とは異なります。牛頭天王は京都祇園の八坂神社の御祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道における素戔嗚尊と同体であるとされています。この牛頭天王像は同時期に奉納された棟札から、学秀入寂の2年前にあたる元文2年(1737)に、名久井村三書林顧養庵(法光寺の隠居寺)で余生を送っていた学秀が、名久井村の梅内宇兵衛の依頼で製作し、牛頭天王堂に納められたもの。製作年代が棟札から明らかになっている上、その年代から学秀最後の作と考えられます。
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牛頭天王棟札(長さ90cm)も町指定文化財。裏面には学秀の署名と花押があり、学秀仏とともに納められた棟札としては現存する唯一のもの。表の墨書きは『聖主□中天 五日市村梅内宇兵衛實武与申仁有之 迦陵頻伽聲 知善悪之業知過去現在未来捨悪 哀愍衆生者 取善禅者成然當所従古来牛頭天王 我等今敬禮 之宮有之新作天王為菩薩因願望成就畢 元文二乙巳年七月十七日施主梅内宇兵衛實武』。裏の墨書きは『牛頭天王作者 八戸大慈寺六世奇峯學秀 花押』。八坂神社境内にある間口2間、奥行1間半の牛頭天王堂に牛頭天王像とともに置かれています。
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奇峰学秀(生没年不詳-1739)は現在の三戸郡田子町出身の江戸時代中期の僧侶。岩手県九戸村伊保内の長興寺7世(一説に11世)住職を務めたのち、八戸大慈寺の6世として迎えられ、正徳2年(1712)には千体の観音像を彫って八戸藩の各地に寄進。更に10年後の享保7年(1722)には、田子町の釜淵観音堂において再び千体の観音像を彫りました。弥勒菩薩像や十一面観音像は田子町の姥ヶ岳神社に残され、地方仏師の貴重な作品として県重宝に指定されています。晩年は五日市の三書林顧養庵(法光寺の隠居寺)で余生を送っていたと伝え、元文4年(1739)に入寂し、三書林顧養庵の墓地に葬られました。
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牛頭天王像前には牛がおりました。こちらは指定文化財ではありません。
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反射して見にくい碑。出羽三山。台座には青森県神和講とあります。
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裏面碑文は拝詞…『「あやにあやに奇しくたふと月山大神の御前を拝み奉る」「あやにあやに奇しくたふと出羽大神の御前を拝み奉る」「あやにあやに奇しくたふと湯殿山大神の御前を拝み奉る」昭和53年5月吉日』
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庚申塔。
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湯殿山・十和田山・金毘羅山。
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羽黒三山(慶應3年)
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十和田山(天保)。
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金毘羅大権現(安政2年4月10日)。
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五日市城(下名久井城)の由来…『鎌倉幕府御家人の工藤祐経(源頼朝の重臣)の長男でもある犬房丸(工藤祐時)は、訳(曽我物語)があってこの地を賜り五日市に築城した犬房丸伝説がある。犬房坂(いばさか)と言い伝えられる坂があり、由来として語り継がれている。それに工藤祐時の子息も居城と言う伝説もある。あるいは平泉の藤原氏の討伐の功績により源頼朝から糠部地方を拝領し、鎌倉幕府御家人である工藤小次郎行光の弟の祐光(又は資光)が、文治5年(1189年)~建久9年(1198年)頃、五日市村に下向し築城したと言われている。五日市城は7つの館(大舘、外舘、仁良舘、和舘、東舘、絵舘、古舘)を形成し、本城(大舘)には舘神があり、集落内には家来の屋敷(在家、台所屋敷)、施設の跡(鍛冶長根、元町)、後家堀(ごけっぽり)など、城跡に由来する地名が現在もある。北西に馬淵川、南に五日市川(如来堂川)、東には油川が流れ、約250町歩の広さを領有し、唯一の水源がある東舘の遠方の助川方面より用水路の造成を為し、七舘まで水を引き堀を巡らせて本城を防衛した。舘跡の其の遺構からも堀割が重要を為し、さらに五日市川、油川の段丘と湿地をも利用した、大規模で守りのかたい天然の要塞でもあった。尚、里人の言に依れば天文年代(1532~54年)に、三戸南部氏の宗家24代南部晴政の家臣、赤沼備中が五日市城主であると言われ、赤沼という地名も現存している。その後の五日市城は城主不明となり、様々な諸説はあるが慶長3年(1598年)の「三戸舘持支配帳」には載っていない謎に包まれた城跡となった。昭和に入り諸事情で八坂神社周辺の堀跡と池、その他の堀跡、用水路も埋め立てられた箇所もあるが、名久井岳を真向かいに望み、風和む丘の五日市は自然の災害も少なく温暖な気候と豊かなる郷として中世の面影を今に伝えている。平成24年3月吉日』
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五日市舘跡の図。
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