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田子町田子字清水頭。
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案内板…『青森県重宝十一面観音(県重宝第51号・昭和35年6月24日指定)。弥勒菩薩(県重宝第52号・昭和35年6月24日指定)。姥ヶ岳神社-田子町大字田子字清水頭一番地。管理者尾形直七。尾形家伝によれば、この神社は戦国時代の末期に、先祖姥ヶ岳大蛇を祭るために建立された。この神社に享保17年(1732)、田子町七日市出身の奇峯学秀(八戸福聚山大慈寺六世)が彫刻、奉納した十一面観音と弥勒菩薩の二体が安置されている。学秀は数千体の作像をした僧侶で、この二体には特に力を入れたと思われる。』ちなみに、西越三嶽神社由緒には次のようにあります…『豊前の国塩田村の郷土にして大廡を構い家族召仕いに至る百余名あるを扶助する大家なるに男子なく女子一名あるのみ此娘美麗にして男子に劣らぬ器量ありという婿養子するといえども不会にして連續する者なし其の内に何方の若人なるや人品骨格相応なる者日々出入りするあり家主夫婦思考娘が氣に応ずる者あるときは婿にとるべし迚て不知顔して日月をへるに娘妊娠なりとふ説あり彼の男父母の名を語らずその外にもあやしむことありにより娘針数本を男の裾のあたりにぬいこむなり男暫く間おき隔月あり来りいわく其の身の妊娠は男子にして必ず後栄える者生るべしいたわり養育せよ我は姥ヶ岳大蛇の化身なりといふ娘なげき父母へ閉にするといふども如何ともする不能迚月の経る待つのみといふが如男子出生し産れながら肩背のあたり蛇尾の形顕然たり是が為めに成人の後尾形と改姓するといふ家富み栄い数代の後弘治永禄の項男子四人の兄弟あり成人に及び協議して日今乱国の世といふに塩田田舎に身を捨てるは男子の望む処にあらず身を立て道を行ひ名を後世に挙ぐるは此の時なりと決心家許にも老父母と妹女を残し都をさして登るや藷將を尋ぬるといえども後栄を究むると見得る大將なく無據江劦の浅井家に附属戦場に望む事数度あり長政不運にして織田信長の為に亡なり家臣散々なるとき兄弟又協議して曰く此後將を尋ね附属すると雖長政の如くなるときは身の固る所なく路頭に迷う事あるべし今の内に武を捨て農商に帰し命を全とふして時節を待つに不如と四人一処にあるよりは望む方へ趣き事有時は旧国に集会すべし迚長男は能登国に二男は出羽の国三男は奥羽四男は松前を心さし下るといふ三男尾形大三郎は南部三戸郡西越村へ居信す開墾の望みあり同村の支村豆田(間明田)は同人の開き地なり西越村へ神社を建立祖先姥ヶ岳大蛇を祀り氏神と崇めたりといふ二代目尾形大次郎といふ此代に至り西越村本支南部家臣の給所となる国主の命令不待との一事にて同村を立退き三戸郡田子村字清水頭に居住外平という支村は同氏の開墾地なり家屋敷續きに堂宇を建立姥ヶ岳蛇身を祀り氏神と崇めたりその姥ヶ岳神社の後地に西越三嶽神社は建立なされ御祭神倉稲魂命豊受大神祀られております西越のお祭りには尾形家より清酒一駄馬にて奉納された由であります』
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参道。
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少し鬱蒼としています。
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姥ヶ岳神社。
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石灯籠。
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社殿内。
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県重宝を間近で拝むことができるのでとても有難いです。
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但しガラス張りにて写真は難しいです。
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ガラス張りになっていないこちらの観音像は奇峯学秀とは無関係でしょうね。
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棟札もありますがよく見えず。
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こちらは多少読めます。
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紀年銘はいずれも天保11年3月16日で、右から「再建稲荷大明神一宇」「建立八幡大菩薩御堂一宇」「建立熊野大権現一宇」。姥ヶ岳神社は八幡神社+稲荷神社+熊野神社なのでしょうか。上記以外の詳細な由緒等は調べていないので、その辺の関連性についてはよくわからず。
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社殿内の神額には「八幡神社」とありました。
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