イメージ 1
案内板より(赤沼の史跡)…『①新山神社:新山神社の縁起については延享元年(1744)新山別当が公儀江書上の下書には「書上之覚 一.当代新山権現起書留等御座無、先祖代々申伝候には、古昔五戸柳町(六戸)飛付石と申石と出現 右村近所鶴か峰と申所へ御移り、明応年中(1492-1500)当社(注新山祠)へ霊夢に依り善兵衛と申者安置。本体は金縁鏡之様成内に三躰鋳物に御座候 弥陀 薬師 観音に御座候間 初始相知申不候」。一説に慶長13年(1608)9月3日創立と伝わっている。本体は神仏習合による本地垂迹の信仰により通称「新山大権現」として祀る。明治2年3月の神仏分離令により、明治2年9月「新山大明神」とす。明治6年4月神社廃社。明治8年2月神社復社して、祭神を弥都波能売命とす。推定:明治27年本殿改修以後、祭神を大山祇命とする。霞場:山伏修験道による宗教支配地。南部領山伏修験道本山派戸来の多門院(新郷村)よりの霞証文によると霞場は宝暦8年(1757)17ケ村・嘉永5(1852)年25ケ村206軒となっている。②赤沼備中館:赤沼備中(北畠顕信の裔と伝えられる)は南部24代晴政の家臣となり厩別当を務め、赤沼館の他三戸の苫米地館、名久井五日市館を領す。大永(1525)の頃より天文8年まで居館とした。赤沼備中と近習頭奥瀬安芸と知行所の領界争い生じ、主君は一方的裁きで安芸を支持、加えて備中の妻容貌殊に佳なれば無理に城中(本三戸城)に招き酒席にはべらせる事数度におよぶ。怒った備中は弟七郎と謀り天文8年(1537)6月14日夜半城中に忍び込み築地矢倉に火を放つ。その混雑にまぎれて安芸を斬り(一説によれば主君(晴政)を斬ろうとして間違って安芸を殺したという説がある)五日市に引き揚げの途中、追手の下斗米将家と諏訪の平で双方休息しながらの激戦のすえ備中討死する。その後、赤沼は奥瀬領となり、幕末まで続く。赤沼備中守として御嶽神社(南部町苫米地)に祭神として祀られている。③赤沼備中守一族の霊廟:天文年中の三戸城焼き討ちの事件で赤沼備中一族が討たれ、後年赤沼村民が供養のため五輪塔を5基建てたという。明治42(1909)年霊廟敷地を造成、当時石塔が3基分、他に数個の石塔の部分石が所々にあったものを1ヶ所に集めて鞘堂を建て霊廟とした。周辺からは経文の一字を書いた小石(経石)が多数出土している。※寺跡=赤沼備中は神を祀る、寺を開き善政を施したと伝えられている。④寺上遺跡:ここの遺跡は縄文創期中葉と前期、(今から1万年-8千年前頃)円筒土器、石器等が出土している。これらの遺物は十和田市郷土館に所蔵されている。発掘調査は昭和41年、平成8・9年に行われた。平成の調査で土器8128点・石器402点出土している。十和田市文化財保護協会平成20年12月27日』
イメージ 2
元禄2(1689)年絵図(十和田市奥瀬・小笠原氏所蔵)。※①-④は場所・内容である。
イメージ 3
赤沼備中一族の五輪塔。
イメージ 4
縄文式円筒土器。
イメージ 5
社号標台座の境内整備記念碑より…『境内整備記念。市道赤沼西小学校通り線の道路改良事業施行に伴う改築、並びに其の他環境整備を記念して茲に刻字する。事業概要一.鳥居2基本、一.神号祈念碑7基、一.社標1基、一.建築奉納碑2基、一.幟掲揚台2基。竣工平成11年9月19日』
イメージ 6
石塔4基。
イメージ 7
三社託宣。
イメージ 8
二十三夜塔(明治19年1月23日)。
イメージ 9
庚申塔(明治19年1月23日)。
イメージ 10
十和田山(明治5年3月15日)。
イメージ 11
石塔3基。
イメージ 12
庚申供養塔(安永7年7月)。
イメージ 13
金毘羅山(慶應4年12月10日)。
イメージ 14
二十三夜塔(慶應2年4月23日)。
イメージ 15
新山神社鳥居建設寄進者名碑(昭和53年9月19日建立)。
イメージ 16
第61回伊勢神宮式年遷宮奉祝参拝記念碑(平成6年9月19日)。
イメージ 17
鳥居。
イメージ 18
参道石段。
イメージ 19
狛犬一対(明治27・8年日清戦役紀念、願主赤沼軍人中)。
イメージ 20
イメージ 21
二の鳥居。
イメージ 22
神額。
イメージ 23
三の鳥居。
イメージ 24
石灯篭三対。
イメージ 25
イメージ 26
手水石。
イメージ 27
社殿。
イメージ 28
イメージ 29
イメージ 30
御祭神は大山祇命。慶長13年(1608)9月3日創立(一説には明応年間)。かつての御祭神は新山権現と呼び習わされ、江戸時代の中期から後期にかけて修験道場として栄えました。別当職は、大正院、不動院を名乗る高安家(後の沼岡家)が代々継承。沼岡家に伝わる延享元年(1744)の赤沼大正院文書によりますと、当社の神は大同2年、古昔五戸町柳町飛付石に示現し、1度鶴ケ峯という所に移った後、明応年中(1492-1500)に善兵衛なるものが霊夢によって、金縁鏡の鋳造本体(弥勒、薬師、観音)をこの地に奉安したといわれています。別当についてはよくわかりませんが、善兵衛から2~3代の間は俗姓のまま勤め、その後本山派の山伏となって大正院をとなえ、代々この院号をもって祭拝してきたと祖父不動院から聞かされた旨書きが残されています。また、宝暦7年(1757)正月、高2石4斗7升遣わされた社領証文もあり、同8年には霞場として、三本木・熊野沢・渕沢・柏木・赤沼・おうふどう・平山・晴山・良泉寺・深持・板ノ沢・柳町・杉ノ木・漆畑・増沢・中村・矢神の17ヵ村を預けおくから、霞場諸旦家中祈祷を怠らず勤め、奉行忠勤をぬきんでるようにという多門院の霞証文も所蔵されています。その後、更に小田村・山口村・百目木村・小倉村・片貝沢村・石渡村・梅村・古屋鹿村・泥ノ木村・中掫村の10ヵ村を加増する旨の証文も授けられましたが、明治初年から氏子は赤沼一村となりました。明治6年4月廃社、同年8月復社、同年9月12日村社。大正4年7月13日神饌幣帛料供進神社に指定。現在の拝殿は大正2年5月20日、本殿は明治27年屋根替と修理を行なっています。昭和43年に「新山神社の記録及び修験道の古記録類」が市有形文化財に指定されています。
イメージ 31
拝殿と廊下で繋がっている西の建物は社務所です。
イメージ 32
イメージ 33
本殿。拝殿は入母屋造、桁行5間梁間5間ですが、新撰陸奥国誌によりますと「本社、南向東西1間半、南北2間」とあることからかなり拡充されたことになります。向拝は2間に1間で、蟇股には沼岡家家紋の三階菱が据えられ、破風には狐格子が張られています。本殿は流造で桁行梁間ともに1間ずつで、屋根は銅板葺、彫刻にはすべて彩色を施した跡が見られます。
イメージ 34
イメージ 35
本殿の横の木。
イメージ 36
人工樹形仕立て。何かはわかりませんが。
イメージ 37
末社八幡宮。こちらもプロの剪定ですね。
イメージ 38
八幡宮社殿・本殿。二尺四面。ちなみに明治2年不動院事高安直記が役所宛届出た「当寺書上覚」によりますと、新山大明神末社として、八幡宮・稲荷明神・滝明神・大沼大明神・小沼大明神の5社が記されていますが、現在は当八幡宮のみが残されています。なお、大沼大明神は本社の西方1km程離れた沼袋にありますが、小沼大明神の所在は不明。滝明神は和田神社となりました。
イメージ 39
イメージ 40
イチョウ。推定樹齢300年以上。
イメージ 41
御神木。
イメージ 42
拝殿建築記念碑(大正2年9月19日建立)。
イメージ 43
大正元年12月5日起工、大正2年5月20日竣工とあります。
イメージ 44
ちなみに『水神竜神 十和田信仰』に「赤沼の新山神社の祭神は弥都波能売命-水神とされているが、現在は大山祇命を祀っているのはなぜだろうか。」とあります。新撰陸奥国誌によりますと、御祭神はやはり弥都波能売命であり、「当社神社改の砌廃社となりしが、村民甚だ信崇する旧来よりの鎮守神なれば、復古再興を悲願したるに因、今又祭祀命ぜられ、高木平人祠司となれり」と記しています。なお、県の神社明細帳によりますと、祭神を大山祇命とし、由緒については「慶長十三年(1608)九月三日創立と伝う」とあり、更に「明治六年四月廃社、同年八月復社、同年九月十二日村社に列せらる」とあります。
イメージ 45
土俵かな。
イメージ 46
赤い鳥居があります。
イメージ 47
赤い鳥居をくぐって少し歩くと再び赤い鳥居。
イメージ 48
歩きにくい参道を登ります。
イメージ 49
イメージ 50
小さな社がありました。
イメージ 51
稲荷宮のようです。
イメージ 52
イメージ 53
イメージ 3
イメージ 2