
御祭神は倉稲魂命。

大池神社の社堂が田面から現在地に移転鎮座した理由として、「水田耕作が盛んになり集落が西方に移動した」、「奥入瀬川の度々の洪水による」、「御神託による」などと言い伝えられています。また移転の歳には現在の林辺りに虹が立ち、神意を示現したと伝えます。安政3年鳥居建立時の棟札、文久2年再興の棟札、元治元年再建の棟札があり、安政のものには慈正院堯知、宮守本右衛門の名が見え、文久のものには宮守元右衛門、一寺一名別当慈正院堯知法印の名が見えます。神璽は文久2年8月15日京都の神祇伯から受けましたが、杉柾目のその箱には神祇伯資訓王勧進の文字が見えます。

境内には推定樹齢400年以上の銀杏の大樹があることから400年以上前に遷宮されたと推定。

御祭神は元々弥都波能売命でしたが、明治6年に御祭神は倉稲魂命となり、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、交通安全を御神徳とし、農耕神から生活安定の神として地域全体の生活上の心の拠り所として広く崇敬されています。御祭神変更前は専ら治水に縁のある神として村民の崇敬を集めてきました。明治6年村社、大正15年3月26日神饌幣帛料供進指定村社。


『水神竜神 十和田信仰』には「倉稲魂命を祀るが末社十九社のうち弥都波能売命を祀る大池、大和田の二社、闇おかみ神を祀る大雷神社、水罔象女命を祀る影沼神社がある。この境内を流れる川は相坂の西の湧水が流れてくるが、神水としてあがめ、不浄にすることを禁じており、水源の湧水点の林を白上水神林といって枝や葉をとることさえ禁止している。ここの稲荷社の近くの石に八郎太郎の伝説が残っている。」とあります。

大池神社(境内案内板より)…『十和田市大字相坂字相坂115の1鎮座。県農試藤坂支場のあたりから西舘地区あたりまで縄文の頃から先住民が住んでいました。今から凡そ1000年位前頃から相坂田面(藤坂支場の前一帯)ではじめて米が作られるようになり、稲作に何より大切な水は神の授りものと考え水源地、大池の地に水神様を祭ったと言われます。永い間大池大明神として祭られて参りましたが相坂の村が西へ西へと広がった室町時代の終り頃、大池大明神も現在地に遷宮されたと伝えられております。境内に樹令400年と推定される銀杏の御神木があります。記…文久2年-大池大明神の御神体を京都から下される。明治6年-村社大池神社となる(相坂村)。御祭神弥都波能売命、倉稲魂命。昭和27-宗教法人大池神社となる。氏子-大字相坂全域890戸(平成8年度)。境内神-蒼前堂、八幡宮、大池大明神、稲荷堂、不動明王石像、薬師堂、二十三夜塔。御神徳-家内安全、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全、学業成就、災難厄除。』

拝殿。



蟇股・木鼻。



向拝注連縄・扁額。鰐口は中にあるのかな。当社には文政5年奉納の鰐口があり、「表大池大明神奉納、裏前奉納寛文九己酉歳、願主総氏子中、社主元右衛門、再興願主江渡半兵衛敬白、文政五年壬午歳正月吉日」と銘があるそうです。

本殿覆屋。

手水舎(平成4年10月吉日)。


手水舎の裏には柵に囲まれた龍がいました。



狛犬一対(昭和49年9月1日)。


旧石垣欄干と「寄附人下通若者中」と彫られた石塔。


手水石。

狛犬一対。


石灯籠一対(嘉永7年8月10日)。


社務所兼神楽殿。

祭具庫かな。

七夕飾りかな。

末社。ちなみに事前の調べでは、かつては弥都波能売神を祀る大池神社、大和田の2社、闇おかみ神を祀る大雷神社、水罔象女神を祀る影沼神社、駒形神社2社、八幡宮、天満宮、椿神社、蛭子宮、高見神社、若木神社、白山神社、高清水神社、白上稲荷神社、大原神社、白上天満宮、一宮神社の19社の末社があり、現在は薬師如来、庚申、蒼神、八幡宮の神仏を祀るだけとのことでした。

蒼前堂。


細かい造りです。



八幡宮。

大池大明神。

大池大明神蟇股。

稲荷宮。

不動明王石像。


薬師堂。


二十三夜塔。

こちらは…(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

本殿裏手。

御神木。

樹齢400年というだけあってとても大きいです。




戦没者英霊之塔。玉垣紀年銘昭和43年8月31日。

立派な英霊塔。藤坂小学校校庭にあった奉安殿の建物であり、1916年新築。戦後に移されました。100余の遺影を安置。

忠魂碑。

終戦30年記念平和祈願碑(昭和50年8月15日)。碑文…『苫米地義三氏は、金次郎氏の三男として、明治13年12月23日、藤坂村に生る。藤坂尋常小学校、三本木尋常小学校高等科、札幌中学をへて、東京高等工業学校を卒業。大日本人造肥料株式会社に入社。昭和6年、同社常務取締役、又東北興業株式会社副総裁など、数多くの会社役員を兼任し、20年、日産化学工業株式会社社長となる。氏は故郷を愛し、昭和3年、人材育成のため、昭和謝恩会を設立、恩師加藤源三先生に託す。昭和20年8月15日終戦を迎えるや祖国再建のため政治を志し、21年以来衆議院議員3回、参議院議員1回当選、22年6月運輸大臣、23年3月国務大臣内閣官房長官、24年3月民主党最高委員長に就任、昭和26年9月サンフランシスコにて講和会議が開かれるにあたり、吉田総理大臣、池田大蔵大臣、苫米地民主党最高委員長、星島自由党常任総務、徳川緑風会議員総会議長、一万田日銀総裁が全権委員に派遣され、同月8日講和條約に調印。当時日本は占領管理下にあったが、この平和條約によって、独立し、平和が確立されました。28年、参議院議員に当選後は世界平和の実現を念願、各国を歴訪したが、病のため昭和34年6月29日没す。正三位勲一等旭日大綬章を贈らる。元青森県議会議員小山田茂』

明治百年記念塔(宮司江渡忠良書)。碑文…『大和田の砂利代を貯蓄し明治維新百年記念事業として御輿堂鉄筋コンクリート六坪工費参拾万円を建築亦境内地の周囲にブロック塀約150間総工費七拾五万円を以って建立し之が記念の印として此塔を建立した。昭和43年9月1日建立』

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