
鎮座地は南部町小向八幡。土地勘がないせいか、私には入口がわかりにくかったです。

ちなみにもう1つの裏参道の場所もわかりにくかったです。

裏参道は社の西側(馬場館跡方面。小向馬場坂。小向橋から鳥居が見えます。※下の写真)になります。目的が南部安信墓所ならばこちらがいいかも。もちろん神社へも行けます。


私は表参道であろう社の東から向かいます。まずは八幡橋を渡ります。

鳥居があります。この鳥居は公道からも見えます。

鳥居をくぐると左右に道が分かれます。そこを左に曲がって数メートル行くと右手に家がありますが、その家の車庫の手前に細い道があるのでそこを右へ。案内看板一切なし。もちろん車は通れません。小さい車ならばこの細い道を塞ぐようにして1台は駐車可能かも。でも付近に住宅があるので車で来ない方が無難ですね。

歩いていくと鳥居が見えます。

全然参道の雰囲気が無かったので安心しました。

本三戸八幡宮…『祭神:誉田別尊(応仁天皇)。鎮座:建久2年(1191年)。文治5年(1189年)藩祖南部三郎光行が源頼朝の平泉、藤原泰衡討伐の軍に従い、その戦巧により、糠部の地(現三戸・上北・下北・二戸・九戸・九戸郡一帯)を賜わり、建久2年(1191年)甲州(山梨県)より入国し、翌3年平良ヶ崎城(現南部中学校々地)を築き南部藩の基礎を確立した。光行は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の後裔で、八幡宮は氏神であり、武神であるので、尊崇していたところの甲州の八幡宮を奥州下向のとき遷座したものである。このとき、甲州から供奉した佐々木治郎左衛門が別当となり、その子孫も代々別当として、神事をつかさどって来た。社地は東西・南北それぞれ50間余(約100メートル)あり、藩主より、社領22石3斗2升1合が給されていた。藩政時代、8月16日の大祭には、南部家より、代参として一門の重臣が参拝し、御馬代金・幣帛料を奉献した。代参の警護として、三戸代官が同心20人を従い、騎馬で供奉し袴田・泉山の両家は本家・分家数家で、年々交替で流鏑馬(馬上で馳せながら鏑矢で的を射ること)の行事を行い、雇地家は征矢(軍陣用の矢)を製して奉献することを例とし、維新にいたるまで永くつづけられていた。八幡宮の背後に、23代南部安信の宝篋印塔型石造の墓がある。なお、八幡宮西方背後の丘陵は、三戸五か城の一つ馬場舘の跡といわれ、南方は馬渕川・北方は猿辺川が流れ、天然の要害となっている。』

八幡大杉(達者村百景)。

昭和55年3月26日町指定文化財指定。胸高周囲約7m・樹高約24m。定樹齢約820年。

参道。山道かと思っていたらきちんと整備されていますね。

石段なので楽です。


到着。

狛犬一対。


石灯籠一対(昭和17年9月20日)。


手水石(宝暦3年9月吉日)。


達者村百景案内板。本三戸八幡宮地区では「本三戸八幡宮」「八幡大杉」の二箇所が選ばれています。

案内板。

本三戸八幡宮の創建は建久2年、南部家の祖とされる南部光行が奥州合戦の功により糠部郡が与えられ、それまでの本拠だった甲州(山梨県)から当地に入部した際に勧請したのが始まりと伝えます。南部家は信州源氏(新羅三郎義光)の後裔とされ、その為、源氏の氏神だった八幡神を篤く信仰。境内は長年南部宗家の居館だった聖寿寺館の一角にあり、南側には馬渕川、北側には猿辺川が流れていることから出城的な役割と、南部家の氏神と同時に城の鎮守社的な存在と考えられます。歴代南部氏に庇護され、聖寿寺館が廃され本拠を三戸城、盛岡城(岩手県)と移った後も信仰は続けられ、例大祭には藩主の代参が必ず参拝に訪れて御馬代金や幣帛料などを奉納し流鏑馬行事も行われていました。古くから神仏習合し、別当は甲州から当地に八幡神を勧請した際に供奉した佐々木治郎左衛門家が代々金剛院として祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により新たに神官が召還されて独立した神社となります。金剛院の境内には南部家縁の墓碑も数多く建立されていましたが、天明4年の大洪水で堂宇と共に流されました。唯一残った南部23代安信の宝篋印塔は、室町時代後期に建てられたもので南部家関係の墓碑として最古とされる貴重なものとして平成14年に青森県重宝に指定。又、境内一体は聖寿寺館跡として平成16年に国指定史跡に指定。
神社庁より一部抜粋…『例祭日9月15日。境内地2584坪、本殿2坪、幣殿3坪、拝殿11坪、社務所31坪。藩祖南部三郎光行が、源頼朝の平泉の藤原氏討伐の軍に従い、その戦力により糠部の地(現三戸・上北・下北・二戸・九戸郡一帯)を賜わり、承久元年(1219)甲州(山梨県)より相内村観世寺堂で越年、翌2年平良崎城(現南部中学校校地)を築き南部藩の基礎を確立した。光行は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の子孫で、奥州下向の時八幡宮を遷幸し、一宇を建立した。光行に甲州からの供奉佐々木治郎左エ門が別当となり、その子孫が代々神事を斎行していたが、維新後は社掌を置き、石井顯昌以後佐々木一族以外から奉仕現在に至っている。8月16日斎行されていた火祭は、現在は斎行されていない。藩制時代の火祭には南部家から代参として重臣が来拝し、御馬代金・幣帛料を奉献した。三戸代官が同心30人を従い騎馬で警護された。流鏑馬を挙行、明治維新まで実施された。流鏑馬は応永25年より始めて永禄12年まで、櫛引八幡宮で旧8月15日翌16日は、八幡宮(本三戸八幡宮)で、大向川原で行っていたが、大洪水の為川原が流失して、元亀元年より御殿川原で行った。明治維新までで中止された。その後櫛引八幡宮でのみ行われている。』
神社庁より一部抜粋…『例祭日9月15日。境内地2584坪、本殿2坪、幣殿3坪、拝殿11坪、社務所31坪。藩祖南部三郎光行が、源頼朝の平泉の藤原氏討伐の軍に従い、その戦力により糠部の地(現三戸・上北・下北・二戸・九戸郡一帯)を賜わり、承久元年(1219)甲州(山梨県)より相内村観世寺堂で越年、翌2年平良崎城(現南部中学校校地)を築き南部藩の基礎を確立した。光行は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の子孫で、奥州下向の時八幡宮を遷幸し、一宇を建立した。光行に甲州からの供奉佐々木治郎左エ門が別当となり、その子孫が代々神事を斎行していたが、維新後は社掌を置き、石井顯昌以後佐々木一族以外から奉仕現在に至っている。8月16日斎行されていた火祭は、現在は斎行されていない。藩制時代の火祭には南部家から代参として重臣が来拝し、御馬代金・幣帛料を奉献した。三戸代官が同心30人を従い騎馬で警護された。流鏑馬を挙行、明治維新まで実施された。流鏑馬は応永25年より始めて永禄12年まで、櫛引八幡宮で旧8月15日翌16日は、八幡宮(本三戸八幡宮)で、大向川原で行っていたが、大洪水の為川原が流失して、元亀元年より御殿川原で行った。明治維新までで中止された。その後櫛引八幡宮でのみ行われている。』

拝殿蟇股。

拝殿木鼻。


拝殿神額。

拝殿手鋏。


社殿内。

本殿。
【追記2025】
『北東北最大の戦国大名三戸南部氏の氏神がまつられた南部町の本三戸八幡宮が、南部氏に関連する木造建造物として最古級のものとわかりました。南部町教育委員会は、本三戸八幡宮の本殿が慶長期の1596年から1615年までの間に建てられた可能性が極めて高いことが分かったと発表しました。南部町によりますと、慶長期のものと推定された建築物は青森県の南部地方では初めてで、三戸南部氏の歴史に関わる建物としては最も古いということです。』

本殿横にあった「八幡宮宝前」碑。

末社。

山乃神。

末社。

石祠があり、更に石がいくつか祀られています。

末社。

稲荷神社。

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