イメージ 1
イメージ 2
中津宮へ向かう石段からの景色が素敵です。
イメージ 3
石段途中の江島辯才天女上宮碑(文化元年)。
イメージ 4
中津宮。
イメージ 5
中村座寄進の石燈籠一対(天明2年5月)。
イメージ 6
イメージ 7
市村座寄進の石灯篭一対(安永6年11月)。
イメージ 8
イメージ 9
不老門再建記念碑。
イメージ 10
不老門再建記念碑…『昔、中津宮の社前に竜宮城の門と同様な楼門があり、そこには「妙音弁財天像」(鎌倉時代後期から室町時代前期の作)が安置されていたと伝えられています。この不老門をくぐることが江の島参詣の魅力の一つであると言われました。その後、この楼門は、長い年月の間に天災や風雨を受け、破壊された姿をさらしていましたが、文久元年(1861年)相州津久井郡勝瀬村の富豪の岡部政右衛門が私費を投じて独力で再建を果たしました。明治6年(1873年)、三重塔などと一緒に取り除かれてしまい、今はこの記念碑により建っていた門を偲ぶしかありません。』
イメージ 11
嗽水盥(元禄3年11月・江嶋上之宮)。
イメージ 12
菊之助のしだれ梅。
イメージ 13
『平成11年(1999年)9月七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた弁天小僧は大いに観衆をわかせました。開演に先立ちお錬りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ梅」であります。』
イメージ 14
江の島歌舞伎(五代目尾上菊之助丈・七代目尾上菊五郎丈の手形)。
イメージ 15
菊五郎のしだれ櫻。
イメージ 16
菊五郎のしだれ櫻…『天明2年(1782)江戸歌舞伎を代表する江戸三座の中村座の寄進による石燈籠はここに200年の歴史を経て参りました。"菊五郎のしだれ櫻"は献燈200年を記念して江の島弁財天に詣でられた尾上菊五郎丈の手植えにより献樹されたものであります。昭和60年9月23日』
イメージ 17
その他石灯篭。たくさんあります。
イメージ 18
イメージ 19
イメージ 20
謠曲「江島」と弁才天…『謠曲「江島」は、弁才天影向の縁起を説いた曲である。欽明天皇の13年相模国江野の海上に島が湧き出て、福徳円満の願いをかなえる弁才天が影向せられたというので勅使が下向する。折から現われた老漁夫は勅使の尋ねに応じて詳しく島の成立を語り、その功徳を讃歎した後、自分はこの島の鎮守である弁才天の夫神の五頭龍王即ち龍口明神であるといって消え失せる。やがて弁才天が十五童子を伴って出現、勅使に如意宝珠を捧げると、五頭龍王も現われ出て、国土の守護を誓いつつ上天したのであった。弁才天は白蛇を飾る宝冠を戴き一蓮葉に乗って右手に剣、左手に宝珠を捧げて、延命長壽、怨敵退散、財宝満足の利得を施すという。謠曲史跡保存会』
イメージ 21
御岩屋道(中津宮)石塔。
イメージ 22
イメージ 23
中津宮…『市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしています。創建は文徳天皇仁寿3年(853年)。その後、元禄2年(1689年)に改築され、朱色が鮮明な現在の御社殿は、平成8年の全面的な改修により、元禄2年改築当時の中津宮(権現造り)を再現したものです。幣殿・拝殿の天井には花鳥画や、彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠等は、江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さを物語っています。●美しい恋したい。「美しい弁財天さまにあやかり、綺麗になりたい!」と願う女の子たちの象徴として、弁財天様の羽衣をイメージした中津宮独自のマークです。三姉妹の女神様の中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が「もっと綺麗に、もっと美しく恋をしたい。」女神である女性達に贈る願いが込められております。』、『江の島島内3ヶ所のお宮(奥津宮・中津宮・辺津宮)を総称して江島神社といいます。江島神社は福岡県の宗像神社と同じく、多紀理比賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命の3柱の女神を祀っています。中津宮は、三女神のうち市寸島比賣命をお祀りしており、創建は仁壽3年(853年)であり、現在の朱色鮮明な社殿は、平成8年(1996年)に大改修されたものです。境内には、江戸時代に歌舞伎関係者により奉納された石灯籠や梅・桜などがあります。当社の弁財天は日本三大弁財の1つで、七福神の弁財天として、また芸能を司る妙音天女としても崇敬され、江戸時代は庶民、歌舞伎役者、武士と幅広い階層から信仰を集め、大変賑わいました。』
イメージ 24
イメージ 25
中津宮社殿。
イメージ 26
イメージ 27
イメージ 28
唐破風懸魚、蟇股、木鼻。
イメージ 29
海老虹梁、手挾み。
イメージ 30
本殿。
イメージ 31
本殿横に水琴窟。水琴の音のご神効…『水琴の音に含まれる高周波が心身の浄化、運気向上と幸運を招いてくれると言われています。【癒し効果】水琴の音は、その水滴の音が自然の音である為、心地良い感じをもたらせます。【覚醒効果】水琴の音は、眠っている細胞を覚醒させ、活気づける効果をもたらせます。【浄化効果】水琴の音は、その周辺の周波数をあげます。場が整うと言う現象が起こり活性化され「スッキリする」「気持ちがよい」と言った心身が浄化される様な感じがします。【運気上昇】水琴の音を日々継続的に聴くと、体内の周波数が高まり、幸運や金運を引き寄せやすい体質になります。【マイナス要素を除く】水琴の音を日々継続して聴くと、自分が持つマイナスの要素への執着心を無くしプラス思考へと変わってゆきます。●水琴の音は、自然がもたらす音なので人が持つ波長を刺激し、「よく眠れるようになった」「心身の不調がとれた」「前向きな気持ちになった」等プラス思考になる体験をした方々が多くいらっしゃいます。』
イメージ 32
狛犬一対(寶暦13年5月)。
イメージ 33
イメージ 34
間宮霞軒句碑(昭和33年)…『さし潮の香を抱く島の霞かな』
イメージ 35
表忠碑(明治44年2月・陸軍工兵二等卒井上春吉・乃木陸軍大将閣下揮毫)。
イメージ 36
江の島サムエル・コッキング苑方面へ。
イメージ 37
江の島サムエル・コッキング苑。
イメージ 38
江の島サムエル・コッキング苑の由来…『イギリス人貿易商サムエル・コッキング氏は、明治13年(1880年)江の島に屋敷を構え、その後、江島神社の供御菜園を譲り受け、3年の歳月をかけ約10,000㎡の和英折衷の庭園を創設しました。これが「コッキング植物園」で、当時の金額で200万円もの巨費をもって造られた豪壮なものでした。中でも大温室は総面積660㎡で、当時では日本一の大きさでした。庭園には、彼が貿易商人であったため世界各国から収集した珍しい植物が植え込まれました。この中には現在も順調に生育しているものがありますが、亜熱帯植物が自然状態で栽培される地としては、日本最北限といわれています。園内には市指定天然記念物のシマナンヨウスギ、クックアロウカリア、タイミンチク、ツカミヒイラギをはじめとする数多くの亜熱帯植物が繁茂し、南国情緒をかもしだしています。「コッキング植物園」は、氏が大正3年(1914年)に没し、大正12年(1923年)の関東大震災で建物の大半が崩壊し、荒廃がその極に達すると、世人の記憶から消え去りました。その間、土地所有者も転々と変わりましたが、昭和23年(1948年)に藤沢市がこれを買い受け、整備して翌年11月「藤沢市立江の島植物園」として開業しました。平成15年(2003年)4月、江ノ島電鉄株式会社の開業100周年記念事業による展望灯台の建て替えに併せ、大々的に再整備され「江の島サムエル・コッキング苑」として生まれ変わりました。』
イメージ 39
サムエル・コッキング氏。
イメージ 40
江の島サムエル・コッキング苑、江の島シーキャンドル(展望灯台)…『江の島サムエル・コッキング苑という施設名は、この地に最初に庭園を造ったイギリスの貿易商サムエル・コッキングに由来します。コッキングは1842年にアイルランドに生まれ、1869年(明治2年)日本にやってきました。横浜で貿易商として成功し、1883年(明治15年)から数年かけて江の島の頂上に和洋折衷の大庭園を築造しました。庭園の総面積は1万平方メートルを越え、園路、石垣、築山、池、花壇のほか、広さ660平方メートルもの温室が造られました。この温室は、当時日本一の広さで、温室の中はもちろん庭園内には熱帯・亜熱帯の植物が生い茂り、さながら南国のたたずまいを現出していたと言われます。いまでも苑内には当時を偲ばせるシマナンヨウスギ、クックアロウカリア、タイミンチクなどが残っています。コッキングの造った庭園は、時代の変換、とりわけ関東大震災の災禍などによって荒廃し、温室も昭和24年の整備時に地中に埋められてしまいましたが、このたびの再整備にあたって掘り起こし、歴史上貴重な温室遺構を観覧いただけるようになりました。苑内にはさまざまな南洋植物や四季おりおりの草花が植えられていて、訪れる人の目を楽しませます。そして、12月から4月にかけては数多くの椿が見事に花開きます。また、藤沢市と姉妹友好都市を結ぶ広場には、四阿(中国・昆明市)、海鼠壁の松本館(松本市)などがしつらえられています。』
イメージ 41
江の島サムエル・コッキング苑マップ。
イメージ 42
江の島名物の丸焼きタコせんべい&イカせんべいで腹ごしらえ。
イメージ 43
イメージ 44
イメージ 45
イメージ 3
イメージ 2