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手水舎・石灯篭一対(寛政8年)。
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辺津宮へ。
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絵図。
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辺津宮。
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辺津宮は田寸津比賣命をお祀りしています。土御門天皇建永元年(1206)、時の将軍源實朝が創建。延寶3年(1675)に再建された後、昭和51年の大改修により、権現造りの現在の社殿が新築され、屋根には江島神社の社紋である「向かい波三つ鱗」が見られます。高低差のある江の島(神域内)では一番下に位置していることから下之宮とも呼ばれており島の玄関口にもあたります。拝殿前の巾着の形をした珍しい賽銭箱は、相模彫りと言われる独特の彫り物で、昭和34年に地元の商店によって奉納されました。制作者は鏡碩吉という北海道出身の方で、お賽銭を入れると音が出る仕組みになっています。
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社務所。
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奉安殿(弁天堂)。
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旧神楽殿跡に昭和45年に建立された法隆寺夢殿を模した八角の堂。
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神奈川県の重要文化財に指定されている八臂弁財天と、日本三大弁財天の一つとして有名な裸弁財天の妙音弁財天が安置されています。有料。堂内撮影禁止。江戸時代にはこの江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せました。
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八臂弁財天。鎌倉時代初期の作。源頼朝が鎌倉に幕府を開く際に、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、文覚上人に命じて造らせたと伝えます。「木造彩色弁才天坐像」として県指定文化財。
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妙音弁財天。裸弁天ともいわれ、琵琶を抱え、女性の象徴を備えた全裸体の半跏像。
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嗽水盥。寛延2年(1749)江戸麻布坂下町の藤屋半七が奉納。
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銭洗白龍王。水源には黄金の小判が隠されているとの言い伝えから黄金浄水とも呼ばれています。
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弁財天黄金浄水…『弁財天の神使白龍王は高さ三米、相模彫鏡碩吉氏の苦心の作で、水源には徳力製の純金の小判が秘められております。むかしから黄金の水は「一、健康によい一、運が開ける一、声がよくなる一、美しくなる」と称せられています。日本三大弁財天の一つであり、関東における最も信仰の篤い江島弁財天の神使である白龍王です。御玉よりほとばしる霊水を頂戴し、ご利益をうけられるようお祈りしましょう。』
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龍神と銭洗い…『往昔より龍は雲、雨、嵐などをひき起す威大なものの象徴とされ、我国では龍神の信仰が、山と湖、海や河川、沼を背景に発生し、水の神と尊崇されてきました。また、インド神話に河川(水)の神と崇められている弁才天は白龍(白蛇)との関係が深く、頭にかぶる天冠にも蛇を頂いております。只今も巳の年、巳の日には御利益を願うたくさんの参拝者が当神社を訪れます。当江の島弁才天は日本三大弁才天(厳島、竹生島)の一つ で、近年まで岩屋洞窟に祀られ、その御霊水で金銭を洗うと、金運向上・財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。現在はここの白龍池にお移し致しました。白龍王の授ける清浄な水で我身我心の不浄の念を洗い清めると神の御守護をいただき、福徳がもたらされると言われております。』
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八坂神社。江島神社の末社。江戸時代は天王社として祀られ、弘化元年(1844)再建。明治6年に八坂神社へ改称。社殿は銅葺、入母屋造りで平成13年に改築。御神体は命の木像。昔、対岸の腰越・小動神社の御神体が海に流されたとき、江の島の漁師が江島岩屋近くの海で拾い上げ、それを東浦に持っていき、真水で清めて八坂神社に祀ったのが始まりと伝えます。例祭は「江の島天王祭」と呼ばれており、毎年7月14日に近い日曜日に海上渡御が行われます。
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狛犬一対(安永10年)。
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八坂神社…『御祭神…建速須佐之男命。御祭礼…江の島天王祭と言われ毎年7月中旬に斎行される。当日は島人列をなして天王囃子を始め、能神・通り・松・神・龍神・唐人・新通り囃子が古風な囃子を奏でるなか、故事により神興は江の島大橋際より真裸体の若人達にかつがれ海に入り、浮きつ沈みつし、陸・船上では夫々の囃子を奏でしあと、夫婦神である対岸に鎮座される腰越・小動神社へと神幸し、1年1度会いに行く湘南地方の夏の風物詩として華麗を極める勇壮な祭で「神奈川の祭り五十選」にも選ばれている。現在の社殿は江島神社御鎮座1450年記念事業の一環として平成14年に御改築された。』
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むすびの樹。2つの幹が1つの根で結ばれる御神木(大銀杏)。この大銀杏に肖り2つの心を1つに結んで良縁を成就させましょう。
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稲荷社・秋葉社。
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御祭神は豊受気毘賣命、火之迦具土神。秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など、江の島随所にあった小祀を合祀したものです。
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宋国伝来の古碑・江島霊迹建寺の碑。
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宋国伝来の古碑…『江島縁起によれば、元久元年(1204年)に宋に渡った源実朝の使節良真が、慶仁禅師より、江の島に因んで授けられたと伝えられ、碑面の四辺を細線で刻画し、上方に左右から双龍形を陽刻し、大日本国江島霊迹建寺之記と篆書されていますが、碑名は磨滅して読むことができません。このため、元禄14年(1701年)に杉山検校の門弟、島岡検校が雨よけを寄進しました。』
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沼田頼輔の歌碑。
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沼田頼輔の歌碑…『沼田頼輔の歌碑は基台石上50cm余りの屏風型の山石の半面を磨いて、短歌一首「さながらに生けるが如く 見まつりぬ 御神ながらも肌ゆたかなり」と彫りつけてあります。昭和36年11月22日、頼輔の28回忌辰を記念して建てられた、江の島唯一の歌碑であります。この歌は、与謝野晶子の鎌倉大仏の美男讃歌と好一対とたたえられています。沼田頼輔は神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬の農、山本喜三郎の次男で本名は頼助。のちに沼田家の養子となりました。「日本紋章学」の著書として知られ神奈川県史にも研究深く、県内に多くの知人と門生をもっていました。』
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御岩屋道碑。
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巳待燈籠石(元文6年)。
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常夜燈一対(文化9年)。
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江島神社御鎮座千四百年祭碑(昭和28年4月)。
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感戴碑「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書。
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震柳居四世句碑(大正12年)「月涼し徐尓聞久琴の曲」。
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嗽水盥(文化6年)。
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奉献金壹千圓碑(昭和9年2月4日)。
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常夜燈(文化5年)。
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猿田彦大神。
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『この碑は庚申塔の一つで、天保3年(1832年)に建てられたものです。碑の執筆者である阿部石年は、藤沢宿の儒者として、また書家として知られ、天保6年(1835年)に没し、その墓碑は鵜沼の万福寺にあります。この碑に書かれている「猿田彦大神」とは、古事記・日本書紀の神話に登場する神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神といわれ、中世以降、「庚申信仰」や、「道祖神信仰」と習合しました。※庚申信仰とは人間の体内には、三尸という三匹の虫がいて、常に人間が犯す罪過を監視し、庚申の晩に体内から抜け天にのぼり天帝に罪過を報告し、人間を早死にさせるという。だから庚申の晩は、常に徹夜をしていれば体内から抜け出し報告できないので、早死にを免れ長生きできるという、中国道教の教えからはじまっています。猿田彦の名前から庚申の「申」と結びついたといわれています。』
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花の広場にある金亀楼別舘碑。この旅館には明治35年に江ノ電の初乗りを狙って来訪した大学3年の寺田寅彦が宿泊した記録があります。平成5年に全逓信労働組合の手で再建されたものの、わずか1年で閉鎖に追い込まれました。景観上問題視されていた建物も平成11年に撤去解体されて花の広場に生まれ変わりました。花の広場には展望台があり、湘南港、七里ヶ浜方面が望めます。
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