
参拝日は「ふじさわ江の島花火大会」のため大混雑!!ってことで全部は紹介し切れません。さて、江の島を最後に訪れたのは二十歳の時なので、もう5年以上は経ちます!

まずは腹ごしらえ。

弁財天仲見世通り入口の青銅の鳥居。

寛保3年に朱塗りの木製鳥居が崩壊後、延享4年建立、その後多くの寄進者(柱に刻まれています)により文政4年再建。※願主として右の柱には吉原遊郭の旦那衆(新吉原弁財天講)の扇屋宇右衛門、大黒屋勘四郎 松葉屋半蔵の名前が刻まれています。左の柱には江之嶋屋利助、同佐兵衛、伊勢屋庄五郎の名が見えます。

額束(鎌倉時代の文永の役に勝利した記念として後宇多天皇から贈られた勅額の写し)には「江島大明神」とあります。独特の字体ですね。神仏分離前は「大辨財天」であり、神仏分離後は「江島神社」に懸け代えられていたそうです。

もっとじっくり見せたいのですが、既に人混みで心が折れそうなのです。

参道脇に惠比壽屋旅館(慶長年間創業の老舗旅館)がありますが、その門内左手にある惠日壽弁財天です。

鳥居の扁額(大正15年6月吉日)。

社殿の扁額。

狛犬一対。


石灯篭や手水石。



永野泉山の石碑「住みなれて居てもすゞしや嶋の月」(明治31年11月15日)。

朱の鳥居(明治11年・山田流筝曲の家元林敏子の再建寄進)。


長堀検校寄進の狛犬一対(慶応元年)。


参道を振り返るの図。

御祭神は、三人姉妹の女神様…『社伝によると、欽明天皇13年(552年)に、「欽明天皇の御宇、神宣により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。』

江島神社全景絵地図。

江の島エスカー(昭和34年建設の日本初野外エスカレータ)のりば。乗りませんが。男坂を進みます。

エスカーのりば前の無熱池。

『「江島縁起」に社壇の北の谷に一池有り龍女常住の池として天女の瑞霊此所に垂れ給ひと…天竺(インド)の無熱池を象り水浅くも旱天にも涸れないと伝えられる。』

無熱池の奥には蟇石。建仁2年、鶴岡八幡宮の供僧慈悲上人の修業の邪魔をした蟇ガエルを法力で石にしたと伝えらています。

無熱池から蟇石をじっと眺める亀。

右には御幸橋が見えます。あちらに進めば杉山検校の墓(西浦霊園)があり、御幸橋を渡らなければ奥津宮への近道。

瑞心門。昭和61年造営。

龍宮城を模した楼門。

壁や天井には片岡華陽が描いた牡丹や唐獅子の絵画が飾られています。



鋏塚。


『鋏塚は昭和39年6月当協會創立35周年を記念して長年使用に耐えた花鋏を供養し斯道の発展を祈念すべく建立されたもので花の字を模した揮毫は当協會顧問日本画家飯田九一先生の筆になるものです。建立25周年協會創立60周年を記念して碑周辺を整備し改めて斯道の発展に寄與せんとするものです。平成元年11月大日本花道協會』

瑞心門をくぐると弁財天童子石像があります。


『平安時代中期に撰述せられた「江嶋縁起」は天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が天下の霊地たるを、記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇十三年卯月十二日、戌刻より二十三日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く蔽いて天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神鬼類夜叉羅刹、雲上より磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後竭雲収まり軽霞まきしりぞいて海上に忽ちに一つの嶋を成せり即ち江野になぞらへて、これを江野嶋という。天女雲上に顕れ、白龍、十五童子を從へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることとなりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を迎へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。平成14年壬午歳12月吉日江島神社宮司相原圀彦』

瑞心門の脇にある百度供養碑。梵字は「ソ」(弁財天)。

宝暦11年から36年間で百度詣りが結願したことの記念に、寛政8年12月江戸下谷住時田三天明昭が建立。

瑞心門から石段を数段上ったところにある江の島弁財天道標や福石。


『杉山検校(和一)は、慶長15年(1610年)伊勢に生まれ、幼くして盲目になりました。鍼の治療で身を立てようと江戸に出て、鍼医の師匠に入門しましたが、不器用なため、術を習得することが出来ずに悩んでいました。そこで何としても神仏にすがり上達したいと思い、江の島にこもり21日間の断食をして祈願しました。満願の日の帰り道にこの石につまずいて倒れて、気を失ってしまいました。すると、夢の中で美しい5色の雲にのって弁財天が現れたので、手をあわせて拝もうとしたとこら、何やらちくちくと身体を刺すものがありました。そこで夢から覚め、手にとってみると松葉の入った竹の管でした。これにヒントを得て管鍼の術を考案してその元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄進したといわれています。』

上から見た瑞心門。

御幸橋と江の島市民の家方面。

江島神社三宮の御案内…『辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す。●辺津宮(下之宮)御祭神…田寸津比賣命。土御門天皇建永元年(1206年)源實朝が創建。弁天堂には日本三大弁財天の妙音・八臂弁財天尊像を始め十五童子像・後宇多天皇の勅願・弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されている。宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・御神木の結びの樹等があり八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。●中津宮(上之宮)御祭神…市寸島比賣命。文徳天皇仁寿3年(853年)慈覚大師が創建。現在の社殿は元禄2年(1689年)の御造営で平成8年の御改修により格天井には花鳥画が施され彫刻等が復元された。境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある。●奥津宮(御旅所・本宮)御祭神…多紀理比賣命。天保13年(1842年)再建。源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の力石・鎌倉四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流筝曲開祖山田検校像等がある。●龍宮…龍神をまつる(例祭9月9日)。●岩屋…波の侵食で出来たもので第1・第2霊窟からなり約150メートル深奥が当神社発祥の地である。欽明天皇13年(552年)にこの地に鎮座された。●春季大祭…初巳例大祭4月初の巳の日。秋季大祭…古式初亥祭10月初の亥の日。一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている。』

『江の島 ~ 其の弐 (辺津宮 / 神奈川県)』へ続く…

コメント