
三戸郡南部町小向正寿寺。三光寺境内。南部利康霊屋『桃山様式の華麗な建造物である。方2間、単層入母屋作り、コケラぶき。南面して建てられてある。正面の向拝には美しいカエルマタ(蟇股)がとりつけられ、木鼻のところに猿(サル)の丸彫がある。この種のものでサルが用いられているのは全国的にみて、このおたまやだけである。柱は向拝が方柱であるほか、すべてが黒漆ぬりの円柱。その上には諸種の色を水平にぬってウンゲン彩色した■(木+斗)■(木+共)(トキョウ)-マスとヒジキ-を組み、黒漆に金で絵様をつけた軒ゲタをのせ、金銅の金具で飾った二重のタルキの列をささえている。縁板の上端に腰長押、内法長押(ナゲシ)、頭貫(カシラヌキ)金パクをおいた台輪(ダイワ)がかけられてある。左右の側面には金パクおしの花頭窓(カトウマド)がとりつけてある。外廻りの壁板には四季の植物と人物画、太公望も釣糸をたれている。台輪の上の幕板は二十四孝の絵。すべて極彩色である。正面、五級の木階をのぼり、戸をあければ内部は外陣と内陣に分けられてある。中仕切の棧板戸に四天王。外陣は格天井、壁面も天井も四季の草花・折枝などの植物がえがかれてある。初期狩野派の絵であり、地方まれにみる優作である。内陣は鏡天井、金地に雲龍のすぐれた線描。正面は浄土の様相をあらわした蓮華図。ここに利康の霊が眠る。長押の上は内陣も外陣も四周すべてが群猿の遊ぶ図となっている。南部利康は南部27代大守利直の四男で慶長13戌申年(1608)に生まれ、幼名を申千代。浅水城主南遠江守直義の家をつぎ五千石を領したが、三戸城二ノ丸の邸宅に常住し、父利直が参勤交代の留守には、その意をよく体して国許の政務を代決し、大きな期待をかけられていた人。寛永8年11月21日、24才の若さで世を去った。くしくも庚申の日である。父利直がこれをいたみ、三戸郷中一か年の収納高をあててこの霊屋を創建したのは、翌9年(1632)のことである。』(パンフレットより)。

達者村百景案内板より…『達者村(南部町)には、豊かな自然が織りなす風景や町並み、田園風景など心癒される景観が数多くあります。眺めることにより心が癒され、達者(健康)になれるような優れた景観ポイント百箇所を「達者村百景」として選定しており、三光寺地区では次の七箇所が達者村百景に選ばれています。』

三光寺地区景観ポイント。

景観ポイント地図。消されている部分は南部利直霊屋です。完全非公開のため消されています。

南部利康霊屋…『南部利康(1608-1631)は南部氏27代利直の四男として幼少のころから代わって政務をとらされたが、24歳の若さで世をさった。父、利直がこれをいたみ、翌年(1632)三戸郷中1年分の収納高をあててこの霊屋を建立した。桃山様式の華麗な建造物で方2間、単層入母屋造り、コケラぶきで外周りは四季の植物と人物画と二十四孝の絵ですべて極彩色で初期狩野派の絵で描かれてある。ここに利康の霊が眠っている。』

南部利康霊屋一棟(重要文化財・昭和28年11月14日指定)…『南部彦八郎利康は27代南部利直の四男で、浅水城主南遠江守直義の家を継ぎ五千石を領したが、寛永8年(1631年)24歳で病没した。これを憐れんだ利直が、三戸郷1カ年分の収納高を充てて建立したのがこの霊屋である。和様、唐様、天竺様の三様式を巧みに配合した桃山風の建築で、壁画や天井の絵も初期狩野派の優作である。猿の彫刻や絵が多くあるのは、利康が申年生まれで幼名を申千代と呼ばれ、自らも猿と称し、しかも庚申の日に逝去したためである。戒名は■(厂部+龍)巌蘊公大禅定門。後に、彦龍院殿の号を追贈している。南部町文化財保存管理委員会』

ドアが開いています。三光寺境内は立入禁止区域が多かったけど、ここはオープンですね!レッツゴー!!

って勢いよく入ったら、中にはきちんと係員がおり…もう中に入ったので後には引けず…で、拝観料300円を取られました。外にいて欲しいです…じゃないと何か騙された気分に(笑)いえいえ、元々払う気はありましたし、国重要文化財ですから安いもんですが…。

建物内には階段があり、2階部分から屋根なども間近に見れます。霊屋内も見ることができますが、暗くて少し見辛いです。ちなみに撮影禁止なのでパンフレットの写真だけ載せておきます。

内陣正面。

外陣東側。

外陣格天井。

こちらは南部利直霊屋(青森県重宝)のパンフレット写真。非公開です。南部利直霊屋…『指定:昭和48年12月3日。復元修理:昭和49年11月30日。所在:三光寺境内。雄大な桃山遺風とともに、室町時代末期のおもかげをも残している江戸時代初期様式による典型的なおたまやである。方3.21メートル、宝形造り、コケラぶき。頂上には露盤と宝珠を置き、南面して建てられてある。柱はすべて丸柱で、土台の上に立ち、周囲に濡縁(ヌレエン)をつけている。長押(ナゲシ)を上下に廻し、柱の上部には頭貫(カシラヌキ)と台輪(ダイワ)を組み廻し、マス・ヒジキを組む。その中間には正面にカエルマタ、両側と背面にミノヅカをつけてある。軒は二重の本ジゲタルキ。木負(キオイ)・茅負(カヤオイ)・裏甲(ウラゴウ)など正規な構造である。正面に、菱格子花狭間(ヒシゴウシハナザマ)文様の両開き棧唐戸(サンカラト)をつけ、金銅の金具で飾っている。他は横板壁となっている。前に、角柱の向拝(コウハイ)をつけ、床は板張りで、三段の階段で縁にのぼる。内部は内陣と外陣の境を四枚建ての格子戸で仕切り、上部に欄間をつけている。内陣は祭壇であり、一枚板の鏡天井。外陣はタタミ敷きでサオブチ天井。周囲の壁面は四十九院の塔婆をうちつけ、この霊屋の特色をなしている。この建物は、タルキ・トビラ・クギカクシなどを金銅の金具で美しく飾ってはいるが、すべてが素木(シラキ)のままの無節の南部檜(ヒバ)で造られ、清楚の趣きを見せている。しかもなお、頭貫鼻や台輪鼻の彫刻は男性的な力強さを示して人に迫るものがあり、かつ流麗な繰り形は肉体的な豊かさを覚えさせる。鹿角郡からの産金量が増大し、富諸侯に冠たりと称されながら少しもおごらず、英敏でしかも骨太い生涯をおくった利直の人間像がそのままに表現された霊屋といえる。南部利直は三戸南部家27代の大守である。従四位下、信濃守。26代信直の長子として天正4年(1576)田子城で誕生、慶長4年(1599)に父のあとをついで三戸城主となった。17才のとき、父に従って小田原参陣し、豊臣秀吉に拝謁して以来、九戸政実の乱、和賀忠親の乱を鎮め、上杉景勝の挙兵をうち、大阪冬の陣・夏の陣には徳川方につき、家康・秀忠の信任をうけた。軍務多忙の中にあって、常に民政には心をくだき、南部藩政のゆるがぬ基盤を確立した名君である。九戸の乱後、盛岡に城を築き、町民をも移したが、三戸城はなおも居城としていた。寛永9年(1632)8月18日、江戸桜田の邸で逝去し、三戸正寿寺に葬った。法号南宗院殿月溪晴公大居士。近臣岩館右京が殉死した。この創建は、利直逝去の寛永9年(1632)か、おそくも翌10年、世子重直によるものと推定される。』(パンフレットより)。

内陣正面。

外陣西側。

光行堂と彫られた碑。

南部利康霊屋の左脇にある「正寿寺おんこ」(町指定文化財・昭和49年7月22日)。高さ約15m、周囲約4.35m、推定樹齢約1000年。

南部利康霊屋の左脇にある「八木橋藤十郎の墓石」(町指定文化財・昭和55年3月26日)。


『八木橋藤十郎武茂は、南部利康死去の翌月の忌日、寛永8年(1631)12月21日に殉死した。武茂は、孫左衛門茂吉の長男でまだ部屋住みであった。行年26歳。法号忠岳宗順禅定門。2つの石碑が立っているが、自然石の方が当初に建てられた墓碑であり、切石の方は武茂の末弟にあたる茂右衛門茂喬が、寛延4年(1751)聖寿寺13世大■(斤+頁)宗碩の撰文によって建碑した。27代藩主利直公は、藤十郎武茂の忠死を賞されて父の茂吉に玄米30石を加恩し、弟2人に50石ずつを与え、両子の病死により茂吉に対して旧知行と合せて200石を与え、子孫に伝えさせた。』

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