南部町は、その名に面影を残すように、南部藩発祥の地として古くから発達してきた歴史の町。初代南部光行からはじまる中世南部氏の奥州入部時期については定かではないのですが、鎌倉時代の末頃までには北条氏の有力家臣として奥州に入部していた説が有力です。南北朝時代になると三戸南部氏は現在の南部町の聖寿寺館を中心として糠部を治め、室町時代から戦国時代にかけては、津軽や岩手県中部・秋田県鹿角地方へも勢力を伸ばしていきます。聖寿寺館からは当時の南部氏の権威や都との交流を象徴する貴重な金箔土器や高級陶磁器が出土。三戸南部氏は戦国時代から江戸時代初期にかけて、南へ領土拡張に伴い、聖寿寺館から三戸城、更に福岡城(二戸市)へと移り、最終的に盛岡城を築いて居城とします。
江戸時代に入ってからも南部町は祖先の重要な土地と認識され、聖寿館に隣接する三光寺境内には26代信直夫妻の墓石(町指定文化財)、盛岡藩初代藩主(27代)利直霊屋(県重宝)、そして27代利直四男の利康霊屋(国重要文化財)が建立されました。
三光寺の所在地は三戸郡南部町小向正寿寺。臨済宗妙心寺派福寿山三光寺。御本尊は釈迦如来。「邦内郷村志」によりますと、本三戸館跡、馬場館跡、小向小四郎旧館跡、八幡宮、三光庵、隅観音堂が記されています。小向村の東側は天保12年に奥州街道を境に沖田面村に属し、支村の聖寿寺も分離。中心集落の北端に若宮八幡宮があり、西南に稲荷神社があります。三光寺の創建は鎌倉時代の建長6年(1254)南部家第2代南部実光が初代光行公の菩提を弔うために、三光国師を招いて福壽山三光庵として開山したのが始まりと伝えられています。三光庵の名称の由来には、開山三光国師によるもの、3人の祖(遠光・光行・実光)の名によるもの、2代実光の諡号三光院殿によるものなど諸説あります。その後、27代利直が瑞巌寺(宮城県松島町)の石門和尚を招き中興開山。江戸時代初期には同じく隣接して南部家の菩提寺だった聖寿寺が盛岡へ移ったことで、この地の菩提寺として三光寺が残り、霊廟や南部家縁の品々を守ることになりました。現在でも三光寺の境内には南部利直霊屋(青森県重宝)をはじめ南部利康霊屋(国指定重要文化財)、南部実光の墓、南部信直夫妻の墓(戒名:前光禄太夫江山心公大居士)、八木橋藤十郎の墓(戒名:忠岳宗順禅定門)、聖寿寺おんこ(推定樹齢1000年)、中世後期の宝篋印塔の一部、桜庭安房の墓(戒名:捐舘覚翁圓公居士)、岩舘右京の墓(戒名:覚岩宗正居士)などが残り、当時の南部家の繁栄を見ることができます。本堂は木造平屋建、寄棟、銅板葺、平入、桁行7間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、花頭窓付。
本堂前にいた方。誰かはわかりませんが趣あります。
本堂裏手の鳥居と小祠2棟。
開きっぱなしの小祠の中には狐が見えました。
隣にあった石塔2基。
山門近くの立派な松。
その松の下で休んでおられた方。
三光寺いちょう(町指定文化財・昭和49年7月22日)。
三光寺境内にあり高さ約22m、周囲約9.50m、推定樹齢約800年。
熊野神社鳥居。
十和田山碑。
熊野神社社殿。
拝殿内。
南部実光の墓。
写真はズームしていますが、周辺は広く立入禁止区域となっており、遠くから眺めるだけです。円墳状の塚がいくつか見えています。
ちなみに立入禁止区域が多かったので、南部信直夫妻の墓、桜庭安房の墓、岩舘右京の墓、中世後期の宝篋印塔などは探しませんでした。見たい方は南部町のHPなどで見てください。
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