

県道45号線、宇藤坂から文治屋敷に向かう途中にある安方橋。住所は川守田宇藤坂と袴田文治屋敷の間で、猿辺川に架かります。

美しいアーチを描いていますが、川に降りなければうまく写真は撮れない感じ。

安方橋からの眺め。


広報さんのへ(2009/4)にその歴史が詳しく書かれていました。※執筆者:三戸中学校教諭小泉敦氏。それによると、昭和10年の夏に襲った大豪雨は濁流満々として猿辺川の農耕地を浸食し、農作物に多大な被 害をもたらし、木橋であった安方橋は流失し、三戸町、猿辺村、野沢村、戸来村の一町三ヶ村を結んでいた戸来-三戸停車場線は車馬の通行が不能となり、日常生活に支障を及ぼしたそうです。三戸町と猿辺村が中心に陳情を繰り広げると、県は2年後の昭和12年7月に橋梁架設工事に着手。総工費1万4千円をかけた安方橋は青森県のアーチブリッジの先駆けとなりました。工事は三戸町の穂積組が請け負いますが、戦時中であったため、鉄筋高騰や応召者による人夫不足を招き、一時完成が危ぶまれました。安方橋が落成した昭和12年12月の東奥日報には連日、次のような記事が掲載されたそうです。「南京最後の日」「南京陥落を期して県下に祝勝の催し」(12月8日付)、「快心の南京空襲」(12月9日付)。また、安方橋落成の記事が掲載された12月12日付の一面には「今ぞ、南京陥落 感激の歓呼」の記事と、青森市や弘前市などの児童が提灯行列や万歳三唱をしている写真が掲載され、安方橋の架け替え工事が行われていた当時、日中戦争の渦中にあったことがわかります。このような戦時非常事態という状況にもかかわらず、安方橋は八戸土木事務所長阿部技師の陣頭指揮のもと、落成予定日より1ヶ月以上早く完成。優雅端麗でしかも堅牢無比な橋として後世に名を残した安方橋は、将来的に三戸-戸来線と金ヶ沢-三本木線の県道をが繋ぐ南部地方における重要産業道路に発展する可能性を秘めていました。

案内板にある写真は、昭和13年の落成当時の安方橋。

主要地方道十和田三戸線安方橋(青森県橋梁アセットマネジメント長寿命化モデル工事)…『【安方橋の名前の由来】主要地方道十和田三戸線の猿辺川に架かる橋。昭和13年、幅5m、長さ32mのコンクリート床板橋として完成している。安方橋は伝えられるところによると、青森市安方町の「安方」を取ったという。この橋付近の地名は文治屋敷と宇藤坂。文治は公家で氏名は宇藤(善知鳥)文治安方という。この文治がえん罪を被り、青森市の善知鳥に流され、以来、青森の開祖となる善知鳥・安方にちなみ、安方の名がついたといわれる。【青森県橋梁アセットマネジメントとは?】橋の状態が将来どのように変化していくのか、将来にわたる維持コストはいくらになるのか等を評価のうえ、限られた予算の中で、いつ、どの橋に、どのような対策が必要かを判断できる「アセットマネジメント」により橋の維持管理を行い、県全体の維持コスト大幅削減を図るため、「青森県橋梁アセットマネジメント」の導入をしました。【モデル工事の概要】昭和13年に完成した安方橋は、主要地方道十和田三戸線と一般県道南部田子線が交差し、当時としては交通の要所に架けられた永久橋で、当時のRC橋の多くが桁橋であったことを考えると非常に珍しい形式の橋梁です。また、「旧大間鉄道二枚橋(風間浦村二枚橋)などと並び、戦前の橋の技術を伝える近代化遺産として保存する意義が非常に高い橋」として「青森県の近代遺産:2000年青森県教育委員会」に掲載されています。そこで県では、モデル工事県内第一号として「安方橋」を選定し、将来にわたる維持コスト削減を図るとともに、近代化遺産として将来にわたって保存することを目的に工事しました。』

橋梁諸元。


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