
『三戸城址 ~ 其之参(三戸町)』より。

大御門跡。糠部神社奥殿付近。

もしかしてあれが館守稲荷神社かな!?ピントが標柱なのでよくわかりませんが、何やら祠みたいなものが…違うかな…ただの木にも見える…三戸城跡付近にお住まい方、写真提供お待ちしています(笑)

本丸に鎮座した由緒ある神で三戸城絵図には本丸にこの稲荷社が明記されています。

御鷹部屋跡へ。

御鷹部屋跡。

鷹狩りに用いる鷹を飼育した場所。

現在は祥鷹閣という建物があり、さんのへ春まつり期間中の休憩所などとして使用されているようです。

御鷹部屋跡…『御鷹部屋とは、鷹狩りに用いる鷹を飼育した場所である。北国である奥州の鷹は俊敏、強健だといわれ上方での評判は高かった。将軍などへの贈物として鷹は南部駒と共に非常に喜ばれていた。三戸では梅内字滝地内の断崖(目時の東裏にあたる)などで鷹の子を取り、この場所で鷹匠が飼い、育て鷹狩りの訓練を行い、優れた鷹に育て上げた。鷹狩りとは飼い馴らした隼、鷂(はいたか)などの鷹を放って鳥や小獣を捕えさせる狩猟のことである。平成元年10月三戸町』

創立十周年記念碑(昭和8年11月3日・上二日町青年會)。

この辺りです。

谷丸跡の大清水。

淡路丸跡。


本丸(淡路丸)…『本丸の内は築地より、2つの区域に仕切られていた。藩主居住区と役所関係施設区の2つの区域である。藩主居住区には千畳敷・大書院・御居間・御奥・御姫様御殿・御大物蔵(金蔵)・御数寄屋などが設けられていた。役所関係区域には御勘定所・御武器蔵・御米蔵・御台所などの施設があった。この2つ区域の中間に、屋根にシャチを飾った三層の櫓があり御三階と呼ばれていた。傍に穴御門があり、谷丸からも入れるようになっていた。御三階は隅櫓であるが、現在の三戸城温故館のモデルとなっている。』

亀池。亀池と鶴池は湧水が溜まってできた池で、戦の際には重要な用水地としての役割があったと推定されます。盛岡城跡の綱御門(現存しない)前の水堀も鶴ヶ池・亀ヶ池と呼ばれています。

松風亭の横から橋で亀池を渡って鶴池方面へ。

誰かがいます。

繭子さんでした。リアルです。

繭子の像…『「名久井の峰つらなり 馬渕 熊原の清らな流れ 合うところ 昔をしのぶ住谷野ひらけ ゆたかにりんごのかわる里 この山河の中に 祖母と叔父夫婦の 愛につつまれて 繭子は育った 母をたずね 弟を思い 苦しさにめげず さびしさにたえ 強く明るく ひたむきに 繭子は歩む」芥川賞受賞作家三浦哲郎氏原作NHKテレビドラマ(昭46年4月-昭和47年)繭子ひとりのふるさとを縁に、日展評議員山本雅彦氏に制作を依頼した。1971年9月建。繭子の像建設委員会』

池畔亭付近。上段御馬屋跡。

力士佐上山金作之碑(大正6年10月2日)…台座碑文『この碑は角道の普及発展を念じ同心町鹿角道にあったものを裏面に記す各位の協力によりこの地に移す。昭和54年10月30日三戸町相撲好友会』。

両脇に関根川清吉と八幡山松之助の名もあります。明治初期の三戸の草相撲は大関の稲荷山金作(猿辺村蛇沼)を筆頭に瀧ノ上與市、関脇の四ツノ越百松(平良崎村赤石)、四ツケ嶺、小結の関根川清吉(三戸町川守田字関根)、八幡山松之助(平良崎村門前)等を擁しており、仙台以北では無敵の陣容を誇っていました。稲荷山は一時大相撲に入るも、帰郷して三戸草相撲の養成に力を注ぎました。弟子には鏡岩善四郎がいます。稲荷山は後年弟子に相撲名を譲り、佐上山という年寄りを名乗りました。

現在のこの辺り。

散策路を戻り、再び望岳亭方面へ。

奥瀬与七郎邸跡。


留目銀之助翁顕彰碑(昭和49年11月3日)…『留目銀之助翁(1848-1917)は三戸郡向村大字大向の人、地方屈指の豪農である。明治31年三戸銀行創立発起人となり、取締役を務め、また煙草製造工場経営に参画する等、地方経済界の重鎮として活躍した。向村長として地方自治に尽くした功績もまた大きい。ここ南部藩の拠点として由緒ある三戸城址が私有地によっていたずらに荒廃するのを憂いその大部分、22町9反1畝14歩(227.252平方米)を買いとり、大正3年3月24日三戸町に寄贈した。賞勲局は、大正9年銀杯を贈って、この美挙を賞した。いまや城山公園に、春らんまんの桜花、秋けんらんの紅葉を求めて行楽するもの、あるいは史跡をたずねて往昔をしのぶもの、その数年間幾十万に達する。これをみるにつけ、翁の郷土愛に基づく業績は、三戸町永代にわたって讃えられなければならない。ここに留目銀之助翁顕彰の碑を建立し、その偉業を後世に伝えるものである。』

望岳亭。

望岳亭の横に大きな看板(裏側)が見えます。この看板を街中から見ると…

これです。今この看板の横におります。

望岳亭からはその名の通りの景色。


鍛冶屋敷跡を通り、鍛冶御門跡へ。

城の裏門にあたり、付近には鍛冶工房がありました。

鍛冶御門跡。

門の形を留めています。



鍛冶御門跡の石垣。主に加工されない自然の石で積まれています(野面積)。

門の向こうにも道が続いていました。

当たり前ですね。今回は時間ないので下りません。

鍛冶御門跡…『搦手口(裏門口)を守る重要な門であった。ここの石垣の石は綱御門などと比べてやや小さめである。しかしその石組みは、綱御門より古いとみられている。石垣の保存状態も比較的良好である。鍛冶屋御門外の留ケ崎地区は三戸地方豪族たちが配置されていた。大光寺喜伝次・石井長七・泉山作之丞・泉山作兵エ・田中与五兵エ・蛇沼惣左エ門・玉掛伊五右エ門・雇地小五郎・川守田伝内・田鍍次郎左エ門・志村四郎左エ門などの屋敷が建ち並んでいた。』

本丸跡へ向かいます。

三層櫓跡

三層櫓跡…『近世の絵図には、本丸北側の一角に築かれた石垣の上部に、シャチを屋根に飾った三層の櫓が描かれています。これは「御三階」もしくは「御二階」と呼ばれた建物で、現在公園内にある「三戸城温故館」のモデルとなっています。』

太鼓櫓跡。

五訓之森碑(昭和7年5月建立)。


勅諭御下賜五十周年記念・帝國在郷軍人会三戸町分会。

由来は読み取れず。ちなみに五訓之森碑は盛岡城にもあります(昭和7年建立)。

三戸城本丸跡。


三戸南部氏の本城「三戸城本丸跡」…『ここ城山公園(三戸城跡)は、戦国時代の城跡で、三戸南部氏が領国支配をするために築いたところと伝えられています。当城跡は、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上にあり、低地との標高差が90メートルを測る天然の要害です。城内は、頂上に位置する本丸を中心に、重臣たちの屋敷が配置される構造となっています。江戸時代に描かれた当城の絵図に、本丸の様子が詳しく描かれています。これによると、本丸への入口は西側の通路から続き、御主殿の手前は広場となっています。この広場には、御白洲(白砂)が敷かれ、正面玄関には唐破風の門が建っていました。玄関を過ぎると御主殿の中へと至り、その先には御広間・御居間へとつながります。南側には、御書院・御数寄屋・御末・大奥などの建物があり、北側の御居間の奥には姫御殿(中野吉兵衛の室)もあったと言われています。』

本丸主殿周辺の八地図。

近世の絵図に描かれている本丸の様子。

江戸時代初期の本丸の様子…『城内の東寄りに位置し、北に谷丸・淡路丸がある。中央は藩主の居住地(現売店・駐車場)で北西は御鷹部屋、北東は諸役所地(現イベント広場)である。谷丸に面する穴御門の石垣上に鯱を飾った三層の角櫓が描かれている。』


本丸地区試掘調査。


今回多用させて頂いた江戸時代初期の三戸城図より…『三戸城の築城年代については、現存する資料に確かな記述を見ることはできないが、伝承によると三戸南部氏の居城であった聖寿寺館(現南部町)が、天文8年(1539)に家臣の放火により焼失、その後三戸に居城を移したと言われている。天正18年(1590)、豊臣秀吉は南部信直に対して「南部内七郡」の領有を認め、同時に三戸城を正式な南部氏の居城と定めた。その後、南部氏の居城は福岡(現岩手県二戸市)、盛岡(現岩手県盛岡市)へ移るが、三戸城には17世紀後半まで城代が置かれ、藩主が度々当城を訪れている。三戸代官所設置後は御掃除奉行が任命され、城の管理がなされた。城内へは下馬御門(イラスト右下)から入り、綱御門→鳩御門→欅御門→大御門を経て本丸に至る。鳩御門より本丸に向かう道の両側には家臣の屋敷が配置されている。本丸の東に位置する搦手御門を通って、鶴池・亀池に挟まれた道を東方に下がると城の裏口の鍛冶屋御門に至る。このイラストは、「三戸御古城之図」、幕末に新渡戸十次郎らが作成した「三戸郡三戸御古城御縄張測量之図」などを参考にしている。』

三戸御古城之図…『家臣たちの名前などから江戸時代初期の三戸城の様子を描いたものと推定される。作者不明。城内は大御門を中心として、東は本丸とそれを取り巻く重要な曲輪、西は家臣団の屋敷が配置されている。』。

豊臣秀吉朱印状(※写真は複製)…『南部氏に「南部内七郡」の領有を認め、領内検地、信直妻子の在京(人質)、領内諸城の破却(破壊)を命じたものである。中でも領内諸城の破壊を命じた条文には「(家臣の)妻子を(人質として)三戸へ住まわせるように」という文言が続き、このことが家臣の三戸への集住を促し、城下町が形成されたと考えられる。』

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【追記】2019年8月、三戸城跡発掘調査で本丸の石垣が見つかりました。本丸の遺構の確認は今回が初。出土したのは石垣の一部で、高さ1.6m、長さ5.8m。基にした測量図「三戸御古城御縄張之図」によりますと、本丸と6-8mの段差がある谷御丸を隔てる場所にあり、更に地下へと続いていて、全体では高さ5-6m、長さ数十mに及ぶと推定。造られた年代は16世紀後半-17世紀前半頃と推定(分析中)。出土した石垣は一つ一つの石が城内に使われる中でも大きく、最大で1.3m。崩壊している部分もありましたが概ね形をとどめているそうです。自然石を積み上げる野面積みの技法が用いられており、石垣の背面には排水のために小さな石が敷き詰められているそうです。見つかった場所は現在城山公園のイベント広場として利用されている地点で、絵図上では本丸と、本丸を守るためなどに少し低い位置に設けた谷御丸との境界があった場所。昭和初期には石垣は埋められていたと推定され、これまで本丸跡では昭和期の大規模な開発の影響により遺構を確認できませんでした。
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