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石亀城主、石亀七左衛門邸跡。
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石亀七左衛門邸跡地はまさかの鹿園になっています。
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日本鹿。
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昭和42年9月に金華山より導入。
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現在の場所はここです。
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糠部上水道通水記念碑(昭和41年5月)。
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いよいよ糠部神社の鳥居が見えてきました。
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欅御門跡。
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欅御門跡…『近世の絵図によると、北面する門の前は枡形(兵隊の控所)となり、南北には門に連なる土塁(防御のための盛土)が築かれていました。門の内側は一段高くなった平場となり、南部家一門の屋敷が構えられていました。この次に続く大御門を抜けると、城の中枢である本丸へと至ります。』
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七十八番札所県立城山公園(東北・夢の桜街道~復興への祈りを捧げる桜の札所・八十八ヵ所巡り~)…『県内随一のサクラの名所、県立城山公園は、戦国時代に南部氏の居城だった「三戸城跡」に造られた自然公園で、熊原川と馬淵川の合流点の標高120mの地にあり、町を見下ろし、名久井岳も一望できる。現在も、堀や土塁など、往時を偲ばせる多くの遺構が残されている。春、園内をピンク色に染めるソメイヨシノ、ヤエザクラ、シダレザクラなど約1600本の桜が、個性豊かに咲き誇る。』東日本大震災復興支援プロジェクトとして、日本で最も愛されている美しい桜を東北の復興・再生のシンボルに掲げ、東北6県の桜の名所を「東北・夢の桜街道~桜の札所・八十八ヵ所」として選定し、多くの方に「東北への桜旅」をPRして東北に足を運んでいただく観光振興による地域づくり運動のようです。ちなみに青森県内では79番から順に、八戸公園、舘野公園、十和田市官庁街通り、愛宕公園、早掛沼公園、合浦公園、芦野公園、岩木川河川公園、世界一の桜並木と桜林公園、そしてラストの88番が弘前公園となっています。
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南部彦八郎利康屋敷跡。南部彦八郎利康屋敷跡と御鷹部屋跡の間に空堀が見られます。この空堀は東側の本丸等の重要な城の要所との間に構築されています。
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南部彦八郎利康屋敷跡…『利康は慶長13年(1608)に初代藩主南部利直の四男として生まれました。父利直が参勤交代の留守中、父の意を良く国政に反映させた手腕から将来を期待されましたが、寛永8年に24歳の若さで世を去りました。父利直は利康の死を悼み、翌年、三戸郷中一ヶ年の収納高をあてて霊屋を創建しました。利康の霊屋は、南部町小向字正寿寺にあり、国の重要文化財に指定されています。』
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正六位勲五等松尾節三翁顕彰碑(内閣総理大臣田中角栄・昭和49年6月建立)。
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南部彦九郎政直屋敷跡。
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南部彦九郎政直屋敷跡…『政直は慶長4年(1599)に初代藩主南部利直の次男として福岡城(旧九戸城)で生まれました。慶長18年(1613)に花巻城代(2万石)となり、花巻城を改築しました。南部一族は、かねてから岩崎城代の柏山明助が伊達政宗と内通していることを疑っており、花巻城内で毒殺を謀りました。この時、政直は謀殺を恐れた柏山を安心させるため、毒の入った盃を自ら飲み、非業の死を遂げました。』
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他にも石井伊賀邸跡などがありますが、現在も色々と発掘調査が行われている最中です。
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三戸城碑。
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『春がすみ秋たつ霧にまぐわねばおもひわすれて鹿やなくらん』南部政行公。
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黄金橋の擬宝珠の絵も刻まれています。
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鏡里喜代治顕彰碑(青森県知事北村正哉書)。第42代横綱です。
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台座に略歴があります。
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追分石。文字が大きいですね。っていうか、追分石はやはり実際にあった場所から程近い場所での設置がいいですね。土地勘がないので全くイメージが湧きません。
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追分石…『この石は三戸町同心町字同心町平32番地にあったもので藩政時代の設置と伝えられるがその年月は不明である。明治18年新国道開さくにあたり同心町平40番地16号地に移したが昔の街道から今の国道に至るまで永年にわたり「右かつの、左もり岡」として地方民に親しまれてきた追分石である。昭和39年国道4号線改良工事のため取り除くことになったので現在地に移し永く記念としてこれを残すことにした。昭和40年6月三戸町教育委員会』
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心字の庭石。
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心字の庭石…『三戸城本丸庭園の庭石で27代利直公第一の遺愛のものと伝えられ、5個の石をもって心字を表わしています。寛永10年(1633年)28代重直公が、盛岡移城に際し町内玉岑寺に保存されていたものをここに移したものです。』
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子持石。
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子持石の由来…『山梨県南部町は南部藩祖南部三郎光行公の故郷であります。この石は、その南部町を流れる富士川より採取された緑色凝灰石の一種で子持石と呼ばれています。現在は採石禁止で希少価値の高い銘石であります。子持石の由来は、石の中に石が生じあたかも赤ん坊が出来た如く見えるからです。心をこめてこの石をなでると子宝に恵まれるといわれています。寄贈者:三戸町出身、福島県いわき市在住、みちのく庭研、松原敏雄氏。』
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松尾馬奮川柳句碑(昭和40年6月20日)…『叱っては見たが子供は俺に似る』
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裏面碑文…『明治19年3月15日三戸町に生る。柳号:馬奮。本名:松尾庄次郎。昭和36年青森県文化賞授与。昭和37年三戸町表彰条例による善行表彰授与。昭和38年青森県褒賞規則による褒章授与。本吟社創立40周年を記念して各地柳友の協賛を得て建立。三戸川柳吟社』
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讃藝碑(南部芸能協会三戸支部・昭和26年8月22日)。
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裏面碑文。
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三戸町立歴史民俗資料館。縄文時代から近代までの三戸町の歴史資料を展示しています。
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三戸城とリンゴ…『26代南部信直時代、文禄4年(1595)頃、三戸城内に梅林と共にリンゴの木もあったことが推定される。同年8月の信直より長女千代子(根城南部19代八戸直栄夫人)宛の書簡に「…リンゴはあをく候間こさず候…」とあるのはその証しである。リンゴといっても現在のリンゴとは違い、リンキンなどと呼ばれる昔リンゴのことであろう。約400年前のこのリンゴの記録は県内最古の記録と思われる。三戸は優良なリンゴ生産地として有名であるが、これも古い歴史と古緒を持った土地柄だからといえることであろう。』
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「リンゴはあをく候間こさず候」…なるほど…ちょっと何言ってるか分かんない。
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昭和42年に模擬天守が築かれています。この模擬天守閣の建物内は三戸城温故館。南部氏の歴史資料を展示しています。
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あくまでも模擬天守であり、この場所が本丸跡ではありません。建物はかつて存在した御三階と呼ばれる隅櫓がモデルとなっています。
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今回はここまで。現在の場所はここです。
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