
『三戸城址(三戸町)』より。

綱御門跡から鳩御門に向かいます。

前回の綱御門跡の説明にもあったように、綱御門を入って鳩御門に向かう途中、道を挟んで南北に武者溜があります。


武者溜は綱御門の守備兵の控所のあったところです。



武者溜…『綱御門は三戸城第一の要衝であり、石垣で厳重に防衛されていた。綱御門の守備兵の詰所を武者溜と呼んでいる。城内で武者溜の設けられているのはこの一郭だけである。これを見ても綱御門は三戸城の命運を担ういかに大事な城門であったかを知ることができるであろう。』

鳩御門跡へ。

鳩御門跡。

こちらは復元されていません。

桜庭安房屋敷跡。

桜庭安房屋敷跡…『桜庭安房直綱は、はじめ佐々木与三郎と名乗りましたが、天正17年(1589)元服のとき南部信直から直の一字と、国次の脇差を賜りました。直綱は、赤石(南部町)館主として二千石を領し、天正20年(1592)の諸城破却の頃から三戸城内に居住したとされます。』

北信愛屋敷跡。一部が水道施設になっていました。

北信愛屋敷跡…『北氏は南部家にとって最も信任の厚かった一族です。特に信愛は、南部家の跡継ぎ問題では信直を擁立し一門をまとめました。また、豊臣政権と南部家の親交を結ぶことに成功するなど、近世南部家の基礎を築いた立役者です。後に花巻城代として、和賀・稗貫一揆の平定で功績を挙げますが、晩年は剃髪・出家し、松斎と号しました。』

目時筑前屋敷跡。


目時筑前屋敷跡…『目時筑前は、三戸城から南へ約3km離れたところに位置する目時館の城主です。目時館は九戸氏が直轄する領地との境に位置し、「九戸の乱」の際は前線基地となりました。石高は300石でしたが、城内に屋敷を設けられたことから、南部家の信任が厚かったことがうかがえます。』

上り道が続きます。途中、跡地の標柱が他にもいくつかありますが、風景が一緒でいまいちピンときません。範囲がわからないので写真の撮りようがない感じです。

東彦左衛門屋敷跡。

公園のように綺麗に整備されています。

東彦左衛門屋敷跡…『東氏は、名久井(南部町)を本拠とした豪族で、南部家の一門といわれています。戦国時代、南部領内で一族間の争いが激しくなる中、東氏も時勢を見ながら派閥を変えましたが、政勝(彦左衛門)の代に信直へ協力し、以後、南部家の重臣として仕えました。』

東彦左衛門屋敷跡、欅御門跡近くにあった石段と鳥居。

三戸城温故館がすぐそこに見えます。

三戸城鎮護の稲荷神社として館守稲荷神社があるそうです。本丸に鎮座した由緒ある神と伝えるも詳細は明らかではありません。三戸町史によりますと、三戸城絵図には本丸にこの稲荷社が明記され、現在は本丸入口の大御門桝形の土塁上に小さな祠として残っているとのこと。これがその館守稲荷神社と思ったのですが…あれ!?地図よく見たら場所が違う!!ってことは館守稲荷神社は見逃したかな(その結果は次々回の記事にて)。

小さな祠ですが立派な造りです。


祠内は荒れており、結局何の祠かは不明。祈祷神符と石がありました。

近くにあった殉職警察官慰霊碑。

拓魂碑…『満蒙開拓の志今もここに生く この碑を還らぬ拓友に捧ぐ 昭和52年8月15日 三戸町長松尾榮謹書』

今回はここまで。現在の場所はここです。

『三戸城址~其之参(三戸町)』へ続く…

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