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馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上にある連郭式山城です。両河川を天然の水堀としており、周囲より孤立した台地で、低地との比高差は約90mを測り、規模は東北から西南方向に約1.5km、北西から南東方向に約400m。
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戦国時代にこの地方を治めていた南部氏(南部家第24代南部晴政)が、天文8年(1539年)6月にそれまで居城としていた聖寿寺館が家臣赤沼備中の放火により炎上焼失し、永禄年間(1558-1569)にこの高台へ城を移して三戸城としました(三戸南部氏が勢力を拡大し続け、肥大化した組織の統制をはかる根城が必要となったために移したとする見方もあり)。南部氏宗家発祥の城と呼ばれています。晴政・晴継が相次いで没すると、天正10年に田子信直(南部信直)が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城。天正18年に小田原征伐へ参陣した信直は、豊臣秀吉所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻子は、南部氏の居城下に集合を厳命されていることから、三戸城が南部氏の居城となったと考えられます。天正19年に九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請されます。その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられています。その後、南部氏の居城は福岡城(九戸城)盛岡城へと移っていきますが、三戸城には城代や代官が置かれ、三戸御古城として大切にされてきました。
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石垣や堀跡など往時を偲ばせる遺構が多く見られ、また、春には1,600本の桜が咲き誇る青森県南随一の桜の名所としても有名です。
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物見やぐら跡と綱御門案内版。綱御門案内版(石段徒歩100m)…『綱御門とは、般若心経を読み城の安泰を祈願した綱(心経綱)を掲げた門のことである。これによってもこの門は三戸城にとりいかに重要な門であるかを知ることが出来る。門に入って鳩御門に向かう途中道を挟んで南北に武者溜があった。武者溜は綱御門の守備兵の控所のあったところである。』
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物見やぐら(火見櫓)跡にある門住亭。通称「ベコの鼻」と呼ばれる場所で、物見櫓を建てる以前の門住稲荷神社鎮座地でもあります。
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糠部神社の参道ともなっている石段を上り綱御門へ向かいます。
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石段の造りさえ、城の形状の名残りを感じさせます。
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この時点で既に高さを感じさせ、景色がとてもいいです。
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周囲には石がゴロゴロ。
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木に挟まれている石。
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ベンチ代わりに丁度いいです。
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綱御門が見えてきました。
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石垣で厳重に守りを固めています。
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旧三戸城綱御門(平成元年復元)。
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南部氏の家紋と鬼瓦。
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内側から見た綱御門。
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綱御門と書かれた石碑。手袋付き。
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「内閣総理大臣海部俊樹」とありますが、関連はわかりません。
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綱御門石垣の隅石。
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綱御門跡…『綱御門とは、般若心経を読み城の安泰を祈願した綱(心経綱)を掲げた門のことである。これによってもこの門は三戸城にとりいかに重要な門であったかを知ることができる。門を入って鳩御門に向かう途中、道を挟んで南北に武者溜があった。武者溜は綱御門の守備兵の控所のあったところである。この綱御門およびこれに続く石垣は平成元年のふるさと創生事業で建てられたものである。平成元年10月三戸町』
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「天地有情」碑(平成元年10月2日建立)。天地万物に人間の如き情あり。
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町制施行百周年記念・三戸町議会議員一同建立。
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今回歩いた物見やぐら跡から綱御門跡までの道。
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今回はここまで。現在の場所はここです。
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