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三戸町同心町熊ノ林。同心町は三戸城下八町の一町で、三戸城下の南西に位置し、街道は地内で西に直行する鹿角道と、南に屈折する盛岡道に分岐します。町名は江戸初期に南部氏が在城して同心を配置したことに由来。元和年間頃の「三戸御古城図」に同心丁と見えます。「邦内郷村志」では梅内村の内の同心丁、「三戸通神社仏閣地名書上帳」でも梅内村の枝村となっています。三戸城下の機能が失われると、城下八町はそれぞれ独立した町として扱われるようになりました。
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参道からの眺望。
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左奥が観福寺入口、右の山門は妙光寺。ちなみにユニバースの駐車場からも直接山門前に来れます。
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山門。
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山門不幸が立てられていましたので、お堂内に入るのは御遠慮しておきました。
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護念山観福寺山門一棟(旧三戸代官所門・三戸町文化財)…『観福寺山門は旧三戸代官所門であるが建立の年代は明らかでない。延享4年(1747年)第33代南部利視公の時三戸代官所新築の記録があるので門もその際同時に建立されたものとも考えられる。明治9年7月10日明治天皇が代官所跡の三戸小学校へ南部駒をご覧のためお成りの際ご通過になった記念すべき門である。現在地へ移築されたのは明治16年。なお当寺には明治4年建立の「白虎隊の墓」および長慶天皇時代の紀年銘を持つ「王性覚観音」もまつられている。十一面観音で天授2年(1376年)の胎内銘がある。昭和55年5月三戸町教育委員会』
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貞享年間に代官所が設けられているため、その年代かもしくは案内板にあるように延享4年の新築時のものと考えられます。薬医門形式、総欅、金属板葺、軒高3.71m、柱間2.1m。
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寺号標。
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南無阿弥陀佛碑。
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境内に入ると尻尾を怪我した子猫が鳴きながらずっと私の後ろを付いてきました。でも病院に連れていくことも、飼ってあげることもできないのよー!(涙)
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とても痛々しくて…でもずっと離れなくて…とてもいたたまれない気持ちになりました。思い出すだけで辛い。元気に育っていればいいなぁ。
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浄土宗護念山攝取院観福寺。御本尊は阿弥陀如来。応永27年(1420)創建。
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上八日町を入口とし、玉岑寺の裏手に位置。盛岡大泉寺末。開基は応永27年3月7日で、開山は文経大和尚。過去に2回火災に遭っており、古記録重宝をほとんど焼失。特に大正2年の火災はひどく、残っていた寺宝・古文書も悉く失いました。寺伝によりますと、元は目時村にあり、目時筑前の菩提寺として建立され、300年程前に藩命により目時から移転。
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寺宝の木造十一面観世音菩薩坐像(王性覚観音。像高46.5cm・台座3cm)は昭和初年の修理の際、胎内喉部に「王性覺天授弐丙辰年八月七日仏子幸慶」の墨書銘が発見されたことから天授2年の南北朝時代に彫刻された仏像とわかりました。南朝長慶天皇時代であり、作者銘のある仏像は大変珍しいものです。像は寄木造りで部分的に補修や彩色が施されているものの当時の形式を継承している貴重なものとして、昭和56年に青森県重宝に指定されています。
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また、伝承によりますと当初は恵光院に安置されていたものが、昭和4年に当寺に移されたと伝えられています。ちなみに長谷恵光院には一木造りのほぼ等身大の十一面観音立像があり、藤原期の作として県重宝の指定を受けています。
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十一面観音菩薩坐像(県重要文化財・昭和56年4月18日)…『十一面の顔は、全ての方向に顔を向け、苦しむ人々を救うためにあるといわれています。本体は数本の木材を寄せ合わせて彫る「寄木造り」で、仏像内部ののど部分にある墨書「王性覚天授弐丙辰年八月七日仏子幸慶」から、南北朝時代の「天授2年」(1376)に、仏師「幸慶」が製作したことがわかります。年号の「天授」は南朝のもので、作者の銘がある県内でも最も古い仏像の一つとされています。元々、恵光院(南部町)に伝来していましたが、昭和4年(1929)、観福寺に移されました。※昭和4年の修復で、両腕の肘から先や頭部が補われました。』
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観福寺境内には明治4年1月13日に斗南藩士(旧会津藩士)大竹秀蔵によって建立されたという白虎隊の供養塔(高さ72cm・幅32cm)が建立されています。これは最古の白虎隊の墓です。三戸に移住していた旧会津藩士大竹秀蔵は明治4年1月13日、白虎隊員17名の姓名と「忠烈古今罕ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ハン」の文字を刻んだ供養碑を建立し、秘かに礼拝供養を続けていました。碑を建立した日は秀蔵の母シヲの一周忌命日であり、白虎隊勇士と母の菩提を共にしようとしたものであることがわかります。
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秀蔵は大正14年、三戸で82歳で没しています。没後は誰にも知られずにひっそりと立っていましたが、昭和25年、先住高杉龍眼師により発見されて大いに注目を浴びました。飯盛山に白虎隊の石碑が建立されたのは明治14年のことであり、それよりも古くに三戸の地で白虎隊の碑が建てられて供養が行われていたことに、天下の耳目を大いに驚かせたのです。
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正面には「簗瀬竹治 鈴木源吾 伊藤俊彦 石山虎之助 野村駒四郎 有賀織之助 西川勝太郎 永瀬雄次 篠田義三郎 伊藤悌次郎 池上新太郎 簗瀬勝三郎 安藤三郎 井深茂太郎 飯沼貞治 間瀬源七郎 石田和助 忠烈古今罕ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ハン」とあります。
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左面には「明治四年未正月拾参日」とあります。
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右面には「會津産諏訪伊助娘嫁而為大竹親君妻哉」とあります。
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裏面は特に何も彫られていません。
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案内板「白虎隊供養碑」より…『ここ観福寺の境内には白虎隊の供養碑があります。白虎隊とは、戊辰戦争で会津藩を守るために戦った少年兵(16-17才)のことで、飯盛山で自刃した隊士たちの悲劇は、今も多くの人に語り続けられています。白虎隊の供養碑を建立したのは、会津から移り住んだ大竹秀蔵という人物です。大竹は移住して間もない明治4年(1871)1月13日に、母親の一周忌に合わせて供養碑を立てますが、なぜかこの碑の正面には、飯盛山で自刃した白虎隊士17名の名前を刻みました。大竹の死後は無縁碑となり長らく埋もれていましたが、昭和25年(1950)、当時の住職である高杉龍眼和尚が苔むしていたこの供養碑を境内から発見します。昭和51年(1976)、三戸在住の会津縁の人たちが中心となって、供養碑は整備されました。』
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案内板より。
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白虎隊供養碑の横にある「わが国最古の白虎隊墓碑由来」碑…(表面碑文)『一.建碑…明治四年正月十三日(大竹秀藏母シヲの一周忌命日に建立)。二.建立者…大竹秀藏(会津藩士。大正十四年三戸にて卒す行年82歳)。三.誤記…一.記載を欠く者三名。林八十治、津田捨藏、津川喜代美。一.蘇生者、飯沼貞吉を自刃者の一として記載。一.氏名の誤記ある者数名(傍点が通説)。鈴木源吉、安達藤三郎、飯沼貞吉(後に貞雄)等。四.注記…一.慶應四年(1868)八月 飯盛山上少年(十六・十七歳)の屍は山鴉(あ)野犬にさらされ、土地の者見かねて埋葬。官軍に発見されて捕えられるという状況。いわんや当時墓標を立てることは許されず。一.明治十四年(1881)飯盛山に一基の石碑建つ。同二十三年蘇生者飯沼の語るところによって自刃の詳細明らかとなり初めて十九士銘々の墓碑建立。大正十五年(1926)再建、現在に至る。一.昭和二十五年、当寺住職高杉龍眼 苔に隠れたるこの碑を発見す。』
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裏面碑文…『白虎隊の墓原文(※案内板と同じため省略)。一隅にひそみたる墓碑を、現位置に移転修理す。協力者各位の氏名は悟真寺招魂碑由来の碑に刻み録せり。昭和五十一年八月二十三日。三八会津会・三戸町観光協会・斗南藩史跡三戸三碑修理顕彰会。』
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