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かつての沖田面村。元大向村枝村で、真言宗恵光院、嶺松院、諏訪大明神、新羅大明神早稲田観音などが見えます。永福寺跡地であり、恵海上人五輪塔(町指定文化財)、経塚、西ノ坊、新羅神社などがあります。
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案内板より…『【永福寺】ここは、藩政時代南部氏の筆頭寺院真言宗の古刹「永福寺」(石高八百石余)の跡地である。元和3年(1617)南部氏の盛岡築城に当り、その鬼門鎮護のためここから永福寺を移したが、早稲田十一面観音は残され現在に至っている。観音堂の棟札、盛岡永福寺初代の恵海上人その他多くの法印の苔むした墓碑が昔を語り、あるいは由緒ある古い地名など多くの史跡が色濃く残っている。【師行寄進状】(重文・根城南部家文書)早稲田のみのくち(水口)二反添えて進じ候也、毘沙門堂の地の事、大向のうち、安田二郎が屋敷、同じくその前に候はたけ(畠)、添えて参らせ候 恐々謹言 二月二日 楯の聖の御房 師行(花押)。早稲田、大向は平良ヶ崎の近くにその名が残り、「毘沙門堂」とは恐らく永福寺を指す。「楯の聖」とはその寺僧だが、寺の近辺に南部氏の邸館があったのでこう呼ばれたのであろう。(吉田東吾著「大日本地名辞書」より)。師行寄進状は建武元年と言われ、この頃既に永福寺が建立されていた。』
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恵海上人五輪塔(町指定文化財)があります。行ってませんが。永福寺三十世恵海上人は、盛岡城の築城とともに城の鬼門鎮護のために移された盛岡永福寺の開祖。新しく城下町を形成するにあたり胎蔵界曼陀羅によって寺院を配置することを建言したと云われています。元和35月19日入寂。五輪塔には「傳燈大阿闍梨……」「法印恵海上人」と刻まれています。
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早稲田観音堂裏・墓所前にあった青面金剛などの碑。
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早稲田観音堂へ。黒塗りの冠木門。
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観音堂。
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観音堂内。
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手水石。
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石灯籠一対(文政10丁亥秋7月)。
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墓所がある山の上に鳥居と建物が見えました。
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行ってませんが。
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