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八坂神社を訪れる機会があったので境内をブラブラ。
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写真はボロ携帯にて失礼。
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社号標「八坂大神社」(明治37年6月13日)。よく見たら八坂大神社。何度も訪れているのに新しい発見ってあるものですね。
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以前の記事『八坂神社 (弘前市)
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御神馬一体(昭和11年6月13日)。
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こちらの碑は…読めない(笑)薬師絡みかな。素盞鳴=牛頭天王=薬師如来ですしね。紀年銘は大正2年旧9月10日。
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地堅祭紀念碑(大正5年2月)。「於長坂変死為紀年建立」。
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天満宮の碑。
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碑文は微妙に読み取れず。八坂神社では御祭神に菅原道真公を祀っています。
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文殊菩薩立像が両脇にあります。面白い石碑ですね。
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石灯篭一対(昭和60年9月吉日再建)。
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手水石(昭和3戊辰年11月10日・正和會)。
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狛犬一対(平成5年旧6月14日改修。古い台座には昭和11年7月の紀年銘)。
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拝殿。
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向拝下。
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拝殿から見た参道。
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授与所。
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社務所。
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本殿。
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本殿横の西征陣亡之碑(明治15年9月10日)。
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達筆にて読み取れず。
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本殿横には天満宮一千年祭祀紀念碑(明治35年6月25日・弘前市中南両郡有志中)もあります。
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小和田武司先生御夫妻公徳碑(昭和33年10月4日)…『先生はみちのくのペスタロッチ名利を求めず富貴を追わず黙々子弟の養成に従うこと實に六十有七年。その御功績は偉大であった。先生九十一歳夫人八十三歳の御高齢と壽を茲に往時を偲び謝恩の誠を表す。』
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小和田武紀の父です。旧制の青森・弘前・八戸中学で国漢を教えた人物。裏面には門下生有志名。
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池坊師範安田(大正4年仲秋)。
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從七位杉山君碑(明治30年9月)…『從七位杉山君碑 舊仙臺藩儒員岡千仭撰文 樞密院副議長從二位勲一等伯爵東久世通禧篆額君諱龍江字之悳幼名龍藏後稱上総籍弘前藩世禄千石本姓石田氏實爲治部少輔十二世孫有所避稱杉山氏父諱成範母津軽氏幼有偉才弱冠督藩校擧老宿振學政元治元年長藩犯闕藩侯選君上京候天機此歳侯入朝君以藩宰從之復古令下代侯率隊上京明年正月伏見變起君急使報變將有所爲尋九條澤醍醐三卿鎮撫奥羽詔侯討會津藩君兼程東下爲之備既而奥羽各藩以會津氏爲冤罪會盟于白石侯遣君莅焉近衛公爲侯宗家書諭朝旨侯決意勤王乃解君職錮家尋前山參謀奉醍醐卿至弘前切説大義侯起君督藩兵三道入盛岡疆與官軍會於毛馬内南部氏開城謝罪十一月凱旋此月幕臣抗命者以軍艦航北海略函館松前江差君屯藩兵青森措辨軍務明年四月官軍大擧北伐君督藩兵航江差歴戦於木古内福山安野呂會大軍於函館賊力盡出降六月凱旋以功加賜六十石此歳郡縣制頌侯任藩知事君爲權大參事兼集議員議員君突體朝旨首納世禄明四民同等之義以一洗門閥宿習君夙好歐説將游海外視其風俗政體侯以不可一日無君不聴常以爲畢生之憾藩廢為青森縣少參事乃辭七年西游見西郷隆盛於麑島會朝廷征臺灣清國有暴言事將不測君馳歸得義旅數百人請從軍未發事寝君受知岩倉公數見論時事西南亂興受公旨歸募巡査千餘人任少警部編新選旅團亂平不果往尋遷權中警部福島九成知青森縣請君長中津軽郡歴任北津軽南津軽所在稱治以積勞敍從七位二十八年九月二日病卒年五十五配山中氏六子長燾之進嗣君訥言語敏文筆渉經史大義臨時毅然不少屈撓尤明知人今籍青森縣知名當世者多君所識拔云衆將建碑傳其韙(是+韋)績以余爲奥人與和戌辰之事請撰文辭之不得乃銘曰 戌辰事興 人懐危疑 奥羽牧師 連名抗威 獨弘前藩 幡然悟非 維杉山氏 實名家嗣 進當大難 略不畏避 奉旨四征 以全大義 出疆謀國 春秋所與 誰曰渝盟 實爲義擧 據状標■(既+木) 銘以斯語 明治三十年丁酉九月 鎮西 吉田晩稼書 陸前稻井 龜山藤太刻』。杉山家12代目龍江を顕彰する碑です。杉山家は代々弘前藩の重臣を務め、弘前藩政を支えました。幕末には龍江が権大参事となり、政府との調整に奔放し、中・北・南津軽の郡長などを歴任。顕彰碑には東奥義塾の塾長を務めた13代目の燾之進の名も見えます。
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成田助翁碑(大正15年10月17日)。成田助(安政元年~大正12年)は元津軽藩士。本多庸一、菊池九郎らとともに藩校稽古館に学びます。明治15年、17年、西津軽郡選出の県会議員として活躍、18年に青森県属に転じ、24年から10年間西津軽郡長を務めました。その後、弘前銀行頭取に就任。和歌・俳句をよくし(岫雲と号す)、園芸も素人離れしていた人物です。
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後凋菊池翁頌徳碑(大正9年4月)…『軍事參議官陸軍大將正三位勲一等功二級一戸兵衛篆額 翁諱楯衛初稱重次郎號後凋弘前藩士成田瀧弥君次子出繼菊池氏為人質直剛果明治之初奥羽繹騒藩論①■■翁與同志倶奔走有所痛論藩廃後従事子農業謂殖産興業経國之要務躬把鋤犂耕耘尤精究園藝之術五十年如一日所②■■不尠云又誘掖後進諄諄不倦遠近聞風従斯業者極多凡地地方殖産之事不籍翁之力者畿希是以農商務省大臣本農會及本縣農會等皆贈以髙級襃賞明治四十一年九月□東官之行啓于本縣也匿名賜□謁大正四年十月□□聖駕之臨本縣行陸軍大演習也又特③■賜宴皆以翁篤農之功績顕著也嗚呼翁可謂東北實業家中之巨④■矣七年四月八日以疾易簀享年七十二今茲四月⑤■其三周忌辰甞蒙翁提撕者胥謀將建碑勒其功徳以不朽其事来請余文余⑥■辱翁知誼不可辭乃叙其梗概系以銘曰東奥有士曰後凋翁甞遭時艱騫騫匪躬世局變移業感⑦■農耕耘樹藝⑧■林欝葱後進取範業興物豊事聞于官襃賞加崇偉⑨■翁徳世仰其隆澤被⑩■邇維民之雄 東京帝國大學教授從四位勲三等農學博士原熙撰 大正九年四月 從六位勲六等近藤富壽書』。□は空白。■は変換できない為下記に写真で掲載。
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菊池楯衛翁頌徳碑文解説…『菊池楯衛氏は、青森県にはじめてりんごを導入し、今日のりんご産業の基礎を築かれた方です。この碑は、氏の偉大な功績を後世に伝えるため、大正9年4月8日八坂神社境内に建立され、昭和59年5月ここに移転建設したものです。碑文…菊池楯衛翁は、弘前藩士成田瀧弥氏の次男で幼名を重次郎といい、後に菊池家養子となりましたが、志がかたく判断が適確で、殖産興業を勧め率先垂範してりんご産業の育成につとめました。また、後進の指導にも優れた才能を現し、農商務省、大日本農会、県農会をはじめ宮中にいたるまで各界からたくさんの褒賞を授与されるなど、その名声は広く天下に知れわたりました。翁は、その先見性と多年の研さんを果たしつつ実践を積み重ね、東北の実業家の雄としてその業績を後世に残したのであります。大正7年4月8日、72才で亡くなりましたが、三回忌にあたり翁に教えを受けた者がここに碑を建て徳を刻み、不朽のものといたすものです。菊池楯衛翁頌徳碑移転事業協賛会・弘前市』
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不明の石。
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魚鳥供養塚(弘前四條會・昭和31年9月)。
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八坂神社御由緒。
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参道。
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