『出合坂(南部町)』からの続き。
黒門(冠木門)。地図だとここから右手に行ったところに和久井清水がありますね。
黒門に下乗の石碑がありました。本来はここで乗り物から降りるんですね。
千本松並木は日本の名松百選の一つ(昭和58年)。
県天然記念物指定(昭和33年)。
松の一つひとつに名前が付いています。
延宝4年に12代住職風山慶門和尚が、小僧たちと般若心経を唱えながら枝垂松(アカマツ)427本を植えたとの記録があります。以前からの松と風山和尚が植えた松を加えて千本に近い松が茂っていたと云われます。その後、寺の本堂や塔などの建立資材として利用されたり、戦時中の供木等で伐採が進みました。黒門近くのアカマツ23本が県天然記念物に指定されており、黒門から爺杉までの松が名松百選にも選ばれています。ちなみに県天然記念物のアカマツ23本は大風による倒木や枯死により現在は15本。
千本松…『その昔、千本松を植樹する際「般若心経」を唱えながら植えたものである。壮観を誇った松林も、大東亜戦争の時、献木、供木し、三重の塔建立の用材のため伐採し、今日ある松は、その名の残りである。昭和58年、日本の名松百選に選定。(青森県天然記念物)』
千本松並木を進みます。
千本松並木の途中に鳥居がありました。
鳥居の横に真法恵賢堂再建記念碑。真法恵賢は和算の祖。
どうやら真法恵賢堂のようです。
恵賢堂。
額束。
堂宇内。
真法恵賢石像。
真法恵賢和尚略伝…『恵賢は真法と号し、寛保から宝暦にかけて八戸に住んだ禅僧で、八戸和算の開祖であり書道の大家でもあった。多くの藩士たちに数学や書道を教授し、その功によって生涯「一人扶持」を与えられた。恵賢の数学を「真法軒流」と称し優れた門弟が多数育成され、当時の八戸の数学水準を高めた。恵賢は、名久井の法光寺と八戸の光龍寺に寄宿し、近郷の人々を教化し、又祈祷や占いによって病人を治したので地方の人々から生き仏のように崇められた。宝暦3年(1753)9月20日八戸市小中野の細越宅にて97歳で遷化し、大杉平恵賢山に葬られた。宝暦6年法光寺・虎渡・八戸の3ヶ所に恵賢の石像が建立され、学問の神さま病気平癒の地蔵さまとして今尚地方の信仰をあつめている。昭和53年4月誌之』
恵賢さまの参詣について…『一.恵賢さまは和尚さまでした。参詣はお線香をたて合掌礼拝して下さい。一.恵賢さまは「書道」と「算数」のすぐれた和尚さまでした。筆とソロバンをお供えするのは書道が上達し算数に強くなるお願いのためです。1本の筆を拝借し上達したお礼に2本のお返しをすること。またソロバンも1丁拝借しお礼に2丁お返しするのがそのならわしです。最近恵賢さまの功徳をしたって書道、算数の上達祈願のため参詣の生徒・学生が多くなりました。一.恵賢さまは病気を癒してくれる和尚さまでも有名です。今日の名医だったのです。祈願札を自分の患部と同じ恵賢さまの部位にはって、全快するようお祈り下さい。昭和53年4月吉日恵賢講合掌』
恵賢の松。
松を楽しみながら千本松並木を更に進むと再び鳥居発見。
鳥居。
社殿。
こちらは蒼前神社でした。
社殿内。
更に松並木を進みます。
達者村百景「爺杉と大典の松」。
爺杉。推定樹齢1000年、樹高35m、目通り幹囲約8m。
土地を鎮め、村を守る神、鎮守さんとして崇められています。元禄15年・安永7年の百姓一揆の際には、爺杉と婆杉の周りに集まり守護の祈祷をしたとの言い伝えがあります。婆杉は老朽のため伐採されており現存しません。
爺杉…『白華山法光寺開山以前に植えられたとされ、2本ある大杉のうち、1本は「じい杉」、もう1本は「ばあ杉」と言われていたが、ばあ杉は今は無く、じい杉だけが残っている。樹齢は推定1000年、高さ35m、周囲約8mの巨木である。昭和33年、県の天然記念物の指定を受けている。』
大典の松。
「枝垂れ赤松 大典乃松 大典書」
顕彰碑…『此度、千松会会員一同、有志の皆様方の御厚意により故楢山大典老師の偉業を称える顕彰碑を建立し、広く故人の遺徳を讃え功績を後世に伝え、顕彰するものである。平成19年8月吉日千松会会長熊谷正一。法光寺住職 贈永平寺西堂 37世中興 楢山大典大和尚略歴。大正3年5月18日-佐藤宇左衛門、えきの三男として青森県斗川村斗内(現三戸町斗内)に生まれる。大正13年-法光寺住職楢山昇光師に就いて出家得度。昭和8年-旧制福岡中学校卒業。昭和13年3月-駒澤大学仏教学科卒業。同年-大本山総持寺に安居修行。同年-法光寺住職37世住職に任ぜられる。同年-応召満州に渡る~20年まで。昭和24年秋-三重ノ塔(承陽塔)落慶法要営修(菅長髙階禅師御親修)。昭和40年-青森県宗務所長当選(一期半)。昭和45年-曹洞宗宗議会議員に当選。昭和53年-曹洞宗宗務庁布教部長、初代伝道部長就任。昭和53年~平成2年3月-駒澤大学理事、監事、評議員歴任。昭和53年-愛知学院大学理事長、東北福祉大学理事長就任。昭和56年-大教師補佐、赤紫恩衣被着。昭和57年-曹洞宗宗務庁教化部長就任。昭和60年-曹洞宗宗務庁教学部長就任。昭和60年-本堂落慶法要営修(菅長丹羽禅師御親修)。昭和62年~平成元年-曹洞宗宗務総長就任。平成3年-講道館柔道名誉段位六段免許。平成3年3月~7年3月まで-駒澤大学理事長、駒澤大学高等学校理事長に就任。平成6年-名川町初代名誉町民。平成9年-法光寺住職退董。平成10年2月21日-遷化。世寿85歳法齢75歳。住職歴57年。大本山永平寺より本山西堂を追贈される。広く門戸を開き、七堂伽藍の復興、境内庭園の整備、そして得度の弟子から嗣法の弟子まで合わせて45名を育て上げる。』
『法光寺(南部町)』へ続く…
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