
出合坂。

達者村百景「出逢坂」。

紫陽花が綺麗ですね。



坂の勾配はさほどありません。


最明寺入道時頼公と玉峰捐城和尚の出合の地。


最明寺時頼公(北条時頼)と夢想軒の庵主玉峰捐城和尚の石像が向かい合っているのですが、草木が邪魔で、どの角度で撮ってもどちらか一方が隠れてしまう状態。私の身長とカメラでは二人は出逢えず!


玉峰指城和尚之像。


最明寺時頼公之像。


「出合坂」地名の由来…『今から七百余年前(鎌倉時代)、当時の執権、最明寺入道時頼公(北条時頼)がこの地方を旅した時、美しい名久井岳に魅せられ山奥まで登りました。帰途、中腹のある寺に一夜の宿を頼みましたが断られ、やむなく別の庵寺に宿を求めました。庵寺の玉峰指城和尚は、ありあわせの品で心からもてなしをしたため、時頼公は庵主の人柄に深く感激し、翌朝、自分の持っていた扇子の表に「壱千石名久井通り右永代可令知行也」、裏には「水結ぶ名久井が岳を眺むれば、海より出でて山に入る月。最明寺入道時頼花押」と書き置きし下山しました。途中、この場所で下の方から登って来る庵主に出合いました。庵主は「朝食の御飯がないので托鉢をしての帰りです。どうぞ今一度お寺へお戻りください」とねんごろに帰山をすすめましたが、時頼公は好意を感謝し別れました。翌年、鎌倉から時頼公の使者が参り、世話になった庵寺に七堂伽藍経堂を立派に建て「白華山法光寺」としました。早朝、時頼公と庵主が「出合われた坂」ゆえ、この地を出合坂と呼ぶようになりました。南部町観光協会』

「出會坂」と書かれた冠木門。

「出合」「出逢」「出会」「出會」…どれかに統一して欲しい(笑)

手水石。

変わった建物です。

向こう山桜や龍が施されたかっこいい扉。

建物内。

北条時頼公地蔵尊と棟札がありました。

狛犬一対(昭和38年8月14日)。


石灯籠一対(昭和38年5月)。


最明寺時頼公地蔵尊顯彰碑(施主米内種之助80才)。

寄附者名碑。名川町、三戸町、十和田市、南部町の各議員名が彫られています。

もう1つの建物。下記の石碑によれば最明寺時頼公の霊廟とのこと。

こちらには丸に桜の家紋。

しかも木鼻付。頭貫・虹梁に付いているわけではありませんが。


石碑…『記。今般各位の御協賛御寄附により夛年の念願である最明寺時頼公の霊廟も愈々落慶しましたに付從来御声援御激励を賜わりました各位の御厚志に報ゆる微意より御寄附の有無に不拘御芳名を永代に傳える為め石に彫り付け其の御芳志に報謝する事に致します。米内種之助建立。補記。当石材に金壱千円以上御寄進下された方々はかりて以下御寄附の方は板書して掲げいたしました。』

狐一対。


米内種之助之像。

盛徳紹隆信士・徳相知光信女。墓碑ですね。誰かはわからず。

米内種之助顕彰碑(八十一才・昭和33年8月吉日・名川町観光協會)。

台座の碑文には寄附者芳名他、出會坂の説明もありました。『最明寺時頼公諸国行脚の砌り當地へ立寄り、當時法光寺住職玉峰指城和尚と出會し坂なり。』

出合坂を上って法光寺を目指します。

途中に御坊塚があります。


空白さんと鉄爺28号さんも訪れている御坊塚。裏側に土盛りがあります。


御坊塚由来…『鎌倉時代北條時頼公が民情視察のため東北地方を回られた時、礼を失したるため観音寺住職桂竺法印が逆(さかさ)に生き埋めにされた所。昭和53年4月名川町観光協会』

『法光寺の千本松・爺杉』へ続く…

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