三戸郡三戸町同心町字諏訪内。御祭神は天照皇大神。イメージキャラクターは巫女と三毛猫を組み合わせた「みこにゃん」。
八日町中央南側に大鳥居が立っており、ここが表参道で、石段を登ること百段で老樹鬱蒼と茂る境内に達します。境内までは裏から車で行くことも可能のようです。
石段は出世の石段と呼ばれているので、出世したい方は表参道から歩きましょう。
参道途中の灯籠一対。
参道途中の恵比寿様。
祭日日程の案内板。春祭は4月1日、秋祭は12月1日、例大祭は9月上旬の3日間で、これが豊年祭をかねた、町民、地方民の一大行事である三戸祭りです。大神宮の大祭は同心町鎮座、川守田鎮座、両熊野神社も参加して三戸三社大祭と呼ばれています。現在も三戸祭で盛大な威儀は御神幸の行列ですが、佐藤嘉悦温故館長の「太田家文書あれこれから」により往時の豪華な行列を偲ぶことができます。明治時代になって規模が小さくなったのは各神社ごとに氏子区域を設定したため、従来の南部様の大神宮ではなくなったため。大正時代になると芝居・映画・相撲・サーカス・動物園など色々な見世物があり、大変賑やかでした。
案内板前には空堀跡があります。空堀跡から少し上ればあっという間に…出世確定です!!
時の鐘へ。
鐘楼。
鐘楼と達磨。
重さ約500kgの重厚な鐘は戦前からある珍しい鐘(昭和2年5月に名古屋市の職人中川勝次郎が鋳造し三戸町が購入したもの。)で、同大神宮では今も家族らが1日5度鐘楼へ行き、365日欠かすことなく人の手で鳴らしているそうです。
さて、神社の由緒については文書によって年代等に相違がみられます。
糠部五郡小史によりますと、『郷社大神宮は三戸町大字八日町南側より入り小高き処にあり祭神天照皇大神鎮座、年代詳ならず、甲斐国より御遷幸のよし、地方総鎮守なり。』
三戸郷土史によりますと、『祭神は天照皇大神即ち伊勢大神宮の御分霊で御伊勢堂と称えた。其勧請は昭和十四年を去る凡そ三百五十年前文禄元年九月(1592)と旧記に見える。社殿は箸木山に建てられてあったが藩主盛岡移城の際今の諏訪内館に邸宅を構えていた豪士藤枝宮内が自分の館を奉納して社殿を移させたのである。遷宮式は寛永六年九月(1629)である。神輿を下し渡御祭典を始めたのは寛文二年九月(1662)からである。明治五年十月社格郷社に列せられた。』
小笠原文書によりますと、『神明宮の由来記によると、当社はもと神明社、神明堂とよばれ、箸木山八畳屋敷に鎮座していた。これを氏神として祭っていたのは、現諏訪内正人氏の先祖であった。それを町内有志等相はかって箸木山に社殿を建立したのは、万治元年三月(1658)であった。神明宮はその後、年と共に町民の崇敬を得るようになった。現在地は、かつて毘沙門館といい、現二日町の多門天が祭られていたので町民からそう呼ばれていた。一説には、諏訪内館ともいい、南部家の家臣、藤枝宮内の屋敷であった。ここに大神宮を箸木山より奉遷したのは、元禄年間(1688)で、別当東学院の子東学坊であった。これが社家山崎家の先祖である。その後、更に社殿並びに神楽殿を造営したと記録されている。』
三戸町郷土誌稿によりますと、『明和元年(1764)十二月、南部藩、御普請奉行奥山左衛門、藩命により現在地に新社殿を造営したのであった。その後、藩主の尊崇厚く、代参をもって武運長久を祈願させた。古老の語り伝えによると、当時町民に伊勢参宮の思潮があり、多額の経費がかかるので、それをこの神明宮をもってかえようとするねらいもあったといわれる。明治五年十月一日、郷社に列し、同十二年十二月三戸大神宮と改称したのであった。更に大正二年九月町民、氏子の寄附によって現在地に社殿を建立して今日におよんでいる。かつては参道は東口にあったものを現在地に変えたという。社家山崎家は火災により書類を焼失したので判明しない。』
さらに明治になってから神社行政が国家管理となり、知事に上申した由緒には、「元亀天正の頃南部信直伊勢皇大神宮の御分霊を勧請し、地を箸木山と称する地を卜し、後現社地に移転せり。往古三戸町外三十四ヶ村の総鎮守として末社六十有余にわたり盛大をきわめたり。」とあります。ちなみに元亀は年代が信直と合いません。山崎命助(生前三戸大神宮の宮司)が幼少の頃は祭典の時、一戸・福岡方面からも神職がつめかけてきたと言っていたことを思いあわせ、否定するわけにはいかず。いずれにせよ箸木山から現在地に移転したことは間違いないようで、箸木山以前となると判然としません。山崎命助は神明宮は平良崎方面から三戸町に数度にわたり移転してきたものらしいと話していました。創建は年代不詳という糠部五郡小史が山崎家文書焼失と融合すると真実かも知れません。
以下青森県神社庁HPを参照…社伝によりますと、元亀元年(1570)伊勢の神宮より天照皇大神の御分霊を、著木山山頂に勧請したのが創祀とされます。その後、南部藩主の崇敬殊の外篤く、武運長久の祈願所と定められました。年と共に参拝者が激増し、社殿境内に狭隘を感じた為、藩士藤枝宮内が寛永6年9月(1629)自分の館を奉納して社殿を移させます。明和元年12月(1764)南部藩御普請奉行奥山左衛門が藩命により壮麗な新社殿並神楽殿を造営。文化9年8月(1826)第38代藩主南部利済公より大神輿(現存)及御紋幕が奉納されました。三戸大神宮は古くから神徒との繋がりが濃い神社として知られています。昭和62年には神明造銅板葺の新社殿を始め、手水舎、絵馬殿、皆集館を竣工。境内整備事業は年毎に弥益す御神徳と共に現在も進められています。又、三戸大神宮祖霊社(旧正智院)には多くの神徒の御霊が祀られています。
案内板より…『御祭神天照大御神(太陽の女神・皇室御祖神)。由来…16世紀、南部氏中興の祖といわれる第26代当主信直が武運長久の為、伊勢神宮の御分霊を勧請したのが当社のはじまりと伝わります。鎮座当初は「神明宮」「神明社」と称されていました。以来、「東北のお伊勢さま」として広く崇敬を集め、御造営が繰り返されました。明治12年、社名を「三戸大神宮」と改め、今日に至っております。』
大正時代(大正3年)の三戸大神宮。
「三戸御古城百間四寸積取調分間絵図面」。
境内案内図。境内地762坪。本殿5坪、幣殿20坪、拝殿21坪、参集殿51坪。
社号標(大正15年12月吉日・宮司山﨑茂穂・内澤雨城謹書)。
狛犬一対(大正13年9月建立)。
手水舎。
社務所・授与所。
石灯篭一対(大正4年6月)。
石灯篭一対(文政7甲申年9月吉日)。
社殿。
社殿は北面して建てられています。
向拝下神額。みこにゃんもいました。
お車御祓所から見た拝殿と神輿庫。
拝殿前にいる無事かえる。
本殿。
本殿千木。
縁結びのハート型絵馬。
『三戸大神宮~其之弐(三戸町)』へ続く。
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