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十和田市三本木倉手。これまでは入ることができなかった幻の穴堰。昨年末に歴史体験施設としてオープンした幻の穴堰(約953mの一部約294mが見学コース。月曜日休坑。有料)。今年に入って平日・週末と2度訪れたのですがいずれも閉まっていました。もしかしたら完全予約制なのかも知れません。私の下調べが足りませんでした。でもコウモリが苦手なのでよしとします。期待して当記事を訪れてくれた方は申し訳ありません。訪れる方は電話予約した方がいいですよ。
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っていうか…私ははるばる2度も何をしに来たのだろう?(笑)幻の穴堰は私の中で幻のままでございます。
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近くにあった昭和11年10月建立の上水記念碑(起工大正12年7月19日・通水大正14年6月6日)。
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上水記念碑の向かいにある慰霊観音。
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痛ましい事故なため、台座の刻文の掲載は控えます。
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慰霊観音…『この鞍出山、側面にある道路は通称「たたら」と呼ばれ、矢神集落と川口集落を結ぶ生活重要道路で断崖は毎年数回崩落し非常に危険な場所であった。昭和11年11月14日、断崖の側面約40坪自然崩壊、交通途絶の状態となり人馬の通行に困却していた。これを見かねた「公立・中掫青年学校」生徒が市沢耕作校長、指導のもとに奉仕的精神により復旧作業に従事した。11月18日、午前10時ごろ23名が上下に別れ路上の岩石を、奥入瀬川に落下させるため縄を巻き引いたところ、下方の青年男女を直撃した。そして死者3名、重傷者1名、軽傷者2名を出す大惨事となった。この観音像は事故死者を慰霊するため義援金をもとに建立されたものである。(死者、氏名年齢は台座側面に刻)平成19年10月22日』
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案内看板がたくさん建っているゾーンがありました。幻の穴堰に関するもののようです。
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稲生川幻の穴堰…『稲生川は、十和田市の開祖といわれる新渡戸傳が、不毛の原野であった三本木原台地に奥入瀬川から上水した人工河川で、安政6年(1859年)第一次上水に成功し、盛岡南部利剛公により「稲生川」と命名された。その後、さらに第二次上水工事が着手されたが、慶応3年(1867年)未完成のまま中断されている。この穴堰は第二次上水工事で開けられたもので、第一次上水工事で開けられた2本のトンネルに次ぐ3本めのトンネルにあたる。稲生川の穴堰工法は、急斜面の断崖に横穴を点々と連続して開け、崖の腹中で横穴同士を結ぶ水路を上流・下流同時に掘り進んで行く方式で、非常に高度な技術を使っている。現在、当時の姿が残されているのはこの穴堰だけで、130年の歳月を経た現在でも、当時の掘削の痕が生々しく残され、当時の農業土木技術の跡が観察できる。この穴堰は取水口と出水口の両面が開かないまま、工事が中断されたためか、地元の人々には「幻の穴堰」と呼ばれている。平成7年3月』
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稲生川穴堰の横穴…『この横穴は熊ノ沢と矢神の間2540メートルの穴堰を掘削するときに機材や食糧の運搬、また空気、明かり取り等のために掘ったものである。当時、このような横穴と縦穴を十ヶ所ほど掘ったものと思われる。現在、確認できる箇所は数ヶ所である。稲生川とは安政2年(1855年)8月1日、三本木新田御用懸に任ぜられた新渡戸伝が嫡子、十次郎と嫡孫、七郎の協力のもと用水堰の掘削大工事に着手し、かん難辛苦の末、十和田湖より流れでる奥入瀬川から安政6年5月4日上水することに成功した。その用水堰の長さは法量と段ノ台間の穴堰は1620メートル、同じく熊ノ沢と矢神間の穴堰は2540メートル、矢神と京ノ館間の陸堰2727メートル、京ノ館と三本木間は3420メートルである。盛岡南部40代藩主利剛が万延元年(1860年)8月開拓状況を視察したときにこの用水堰に稲生川と命名したものである。その後稲生川は国営開墾事業などに引継がれ六戸町、下田町、三沢市、百石町を貫流し1万2千ヘクタールの美田を潤おす一大生命線の聖水となっている。』
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幻の穴堰案内図。
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稲生川穴堰。
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こちらも幻の穴堰近くにある山神の石碑。稲生川掘削工事中の安政3年(1856)9月12日(難所であった天狗山穴堰工事を控えた山神の縁日)に、穴堰工事の安全を祈り、上水工事に関わっていた技術者集団によって建てられました。碑面には、特異な字体で「山神」と彫られており、その下には吉助以下17名の工事技術者の名があります。昔は土の上に直接置かれており、名前の部分は土中に埋もれていたようです。
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隣にある金毘羅山の石碑は、十次郎による第2次上水工事中の慶応3年(1867)7月10日に、工事の安全を願って建てられたものです。
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稲生川掘削工事は、山を掘削して隧道を造り、そこへ川の水を引き込むという山と川の双方に関わる工事であることから、その安全を祈って2つの神を祀る石碑をそれぞれ建てたものと考えられています。どちらも平成2年(1990)に市の有形文化財に指定されました。
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二十三夜塔と三社託宣碑もありました。
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金毘羅山の石碑(十和田市有形文化財第12号・平成2年8月23日)…『稲生川上水第二次計画の、第三穴堰(トンネル水路)工事中の慶応3年7月10日に建立されたものです。この工事は落盤等もあり、難工事であったため、工事関係者が四国の金毘羅宮に安全祈願をして地元に帰り、「金毘羅山」を石碑に刻み工事の安全を祈願したといわれます。慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、幕藩体制が混乱。南部藩からの開拓資金が打ち切られ、続いて新渡戸十次郎が48歳で病没する不運が重なり、工事は中止のやむなきにいたりました。この穴堰を後の人は「幻の穴堰」と呼んでいます。』山神の石碑(十和田市有形文化財第11号・平成2年8月23日)…『稲生川工事の第一穴堰(トンネル水路)が貫通し、1回目の仮通水がなされる見通しがついた安政3年9月12日(山神の祭礼日)に、この石碑が建立されました。願主は稲生川工事の技術者達で、吉助はじめ17人の名が刻まれています。石碑は工事の貫通に感謝し、今後の工事の安全を祈願したものです。地元の人達は工事供養碑として祭り、大事に保存してきました。稲生川上水工事の歴史の一部をいまに伝える記念すべき石碑です。』
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