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黄檗宗海福寺。
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海福寺(下目黒3-20-9)…『明から来朝した隠元隆琦が万冶元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来立像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内で現存している希少な例です。山門の赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化4年(1807)の深川富岡八幡大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。平成21年3月目黒区教育委員会』
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石段。
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石段の上に四脚門。
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海福寺四脚門(目黒区指定有形文化財・昭和59年3月31日指定)…『海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。また、四脚門は中央にある親柱2本とその前後に2本ずつある4本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式であり当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸時代中期の特質を備える貴重なものである。昭和59年8月東京都目黒区教育委員会』
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本堂。
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扁額には「泰雲」とあります。新宿区上落合にあった黄檗宗黄龍山蓮乗院泰雲寺(廃寺)。
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鐘楼堂。
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梵鐘。
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東京都指定有形文化財の梵鐘…『天和2年に当時深川にあった海福寺が全焼し梵鐘も灰燼に帰しました。時の住職独本が新鋳し、黄檗宗の開祖隠元大師の新鋳を祝した銘が刻まれています。裾の雲形の柔い線は、我国伝統の様式に中国風の柔か味を工夫した他に類例のない逸品です。』
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九重塔。
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『武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔(江戸名所図絵より)』
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永代橋崩落横死者供養塔・石碑。
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『文化4年8月19日深川八幡の祭礼の時人出のため永代橋が落ち数百人の人々が水死しました。その霊を供養するため木場の人々が建立した供養塔です。これは昔は大変有名な事件で歌舞伎では黙阿弥作「八幡祭望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」、落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材となっています。』
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文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑(東京都指定有形文化財・平成3年3月8日指定)…『文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが12年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生した。事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現・江東区深川2丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政3年(1856)の50回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治43年(1910)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。この事件はのちに、戯作者山東京伝の「夢の浮橋」や、京伝の弟山東京山の「蜘蛛の糸巻」、滝沢馬琴の「兎園小説余録」に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えたかを明らかにする重要な資料である。平成23年3月建設、東京都教育委員会』
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手水石。
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萬霊塔。
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石仏。
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こちらも火災に遭ったような石仏に見えましたが、紀年銘は貞享3年(1686)でした。
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裏は墓所。
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